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市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

今年も連休 映画ダイハードを連想

2012-04-28 | Weblog
今年の連休は、北朝鮮が韓国に特殊攻撃をしかけ、数分間で、韓国を火の海にすると北朝鮮国営テレビで対外に流しつつけるという、まるでマンガの戦争を地で行くような宣言があった後でスタートする。ゴールデン・ウィークの直前となったが、週末は終末にならずに済むかのようにテレビは、この状況も、あっというまに、過去のシーンとなっている。脅しというか狂気というか、あまりにもばかばかして、ほっとけばいいはずなのに。これで、北朝鮮国家のストレスが発散していけば、それはそれで結構な話ではないかと思う。

 そこで、ハリウッド映画;ダイハードの連想に入るのだが、この娯楽作品は火の海連想があり、いかに死をくぐりぬけて、命を永らえるかという大逃走劇のスリルが売りになっている。つまり die hard (なかなか死なない)である。ここで、ぼくの主張する連想とは、「ダイハード」を「大ハード」にすることなのである。つまり、Big Hardwearとすることである。この場合のハードは、ソフト・ハードにおけるハードである。つまり、大ハード、それはそれは入れ物だけ立派で中身は空っぽという意味連想である。巨大な各地の公共文化施設、博物館、美術館、図書館などの建物に入った瞬間に「大ハード!」連想を持つ。あるいは内心の驚き、嘆声を、ダイハードと叫ぶことにしようということである。世界の中心で、愛でなくダイ・ハードを叫ぼうという運動である。大ハードとは、まさにこれらの施設を認識できる一つの視点、要約にすることができるのだ。

 たとえば一例を挙げれば先月、ぼくは宮崎市西都市の日向古代史博物館に入ったのだが、その施設のダイハードぶりに、ここもまたそうであったかとのダイ・ハード感を深めたのであった。今も印象に残っているのは、宝石を埋め込んだような階段がある。土足で昇降するだけの階段をこれほど磨き上げるダイ・ハード情熱に感動すら覚えたのであった。展示室は地下室であったが、展示物の土器が分類されて、ケースが並んでいるが、その何十というケースの前にそれぞれパソコンがうやうやしく備えられコンピュータ操作を要請されていた。そんな暇は無かったが、それなしには、展示物の内容は分らないようであった。縄文土器がどこから出土して、年代は西暦何年なのか、その場所は、どんな集落があったのか、なにを食っていたのか、何人いたのか、そんなことは、さっぱりわからなかった。あるとすれば、背後に絵画による古代人の生活が、まるでエジプトを扱うSF映画のように何十メートルと描かれ、誇張に満ちた文学的な説明が、抽象的な形容詞まみれで書かれ、まさにへぼ詩人が自己顕示そのままのゲイ術を吐き散らしたようなダイ・ハードが、レアル縄文土器をおおいつくしているのであった。

 もちろん、これは西都市の博物館ばかりでなく、ダイ・ハードは、鹿児島にも熊本にも福岡にも累々として誇らしげに、文化の大誇示として廻りを睥睨しているのであった。それらが、どうあろうと、ぼくの生活に関係はなかったのだが、ただ一つの物悲しさは、かってみた、ささやかな、それだけに親身になって地方の文化遺物が見られたのが、何の装置か分らぬガラスケースに収められ、点滅する光や、移動する背景のなかで萎縮され、風化されてしまったりするおおくの展示例に遭遇することであった。これらが誇示してやまないのは、レアル展示物でなくて、ダイ・ハードがすべてであるという幻想である。

 思えば、われわれ日本人は、入れ物が立派であれば中味も立派であるという肯定感から、そう簡単に逃れられない。田舎であれば田舎であるほど、文化というレアルをダイ・ハードで多い尽くして入れ替えてしまいたがる。そう、それは戦艦大和を作った心魂の伝統であろう。戦艦大和があり、世界最大口径の艦砲をもつ大和はそれが中味であったのだ。あの戦艦に代わる、潜水艦、航空機は、「小さなもの」は、内容としてイメージできなかったのだ。内容、すなわち戦闘能力というソフトでなく戦艦大和というダイ・ハードで世界は完結し、米国の航空機と潜水艦によって沈没された。その歴史的伝統観念は、われわれのなかに、生きている。それこそハリウッド映画ダイ・ハードそのままである。現実は、いきられなかったが。ここからダイ・ハードという容器否定にいたる認識方を身につけることはなかなか難しい。頭で理解できても行動は別になる。政治、経済、集団社会の一切の日本的社会状況がからみついてくるからだ。

 しかし、せめて連休中、小旅行で訪れたさまざまの公共施設で、ダイ・ハード連想を認識脳にしてみたい。日本人の大部分にダイ・ハード観念がいきわたっていくことが差し当たり可能性に繋がるかもしれないと思う。
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朝ドラ・カーネーション馬脚

2012-03-21 | Weblog
 国民のドラマとなって視聴率を挙げてきているNHK朝の連続小説を、「げげげの女房」から昨年度の「おひさま」「てっぱん」から、「カーネーション」と見てきている。カーネーションは、それまでの夫婦愛、家族愛、絆のテーマよりも、まずは、なによりも自己に忠実な人間ドラマとして描いていくことに興味を引かれてきた。戦後を世界的デザイナーとして自己実現をしていく人間ドラマとして描いていくこと、ただ家族愛だけに生きるヒロインの幻想的な生活とは、おおいに違っていたのは、戦後日本の消費社会を生き抜いていた実在の世界的デザイナーの実人生があったからであろう。もちろん、ここにも「希望」という今の国民に必要なテーマが、大衆啓蒙として込められているのは、NHKの朝ドラではある。それはあるとしても、ヒロインの葛藤に人間らしさを感じられるのであった。

 3月4日、ヒロインが老後となり、それまでの尾野真千子から夏木マリに代わってから、見るに耐えないものになってきた。まずは共感と面白みが無くなった。もはや成功し名をあげ、人生を大口開いて、ガハハと笑って乗り越える豪快な老女となったヒロインを見ても、面白いとも、共感や勇気を与えられることもない。ここには、もはやなんの、重ねあえる人生模様もないのである。さらにこの老女が虚ろに感じられるのは、夏木マリは、ヒロイン小原糸子の人間性を表現するのでなく、尾野真千子との整合性を繕うのに演技を集中しているのである。どこからどうみても夏木に尾野の重なりが実現するのは不可能なのである。ただ、あるのは、糸子のガハハの豪傑ぶりと巻き舌の口調だけである。

 つまりこのことは、夏木マリの責任ではない、ここが問題なのである。まずはなんといっても、世界的デザイナーとなった小原糸子の人生を描くことができなくなった原作や脚本の不成功がある。とくに80年代の豊かな消費社会である日本という舞台が描けない。戦後のノスタルジーの延長があるばかりである。そんな時代を生き抜いていくヒロインの葛藤がない、というより、脚本それ自体が、もはや消費時代を描けず、戦後のノスタルジーを憧憬するに留まっている。だから当然、ヒロインの晩年は作り物でしかなくなった。夏木マリがどう逆立ちしても人間像を表現できるものでもなかった。その断絶を若き日のヒロインとの辻褄合わせでごまかそうとしている。それ故、国民視聴者は、尾野の小原糸子の物真似を演じるしかなくなったのだ。いや、そのような演出にしたがわされたのだ。したがって、3月4日以降のドラマの失敗は、本当は、老女役の夏木マリでもなく、まずは脚本の崩壊である。さらに、それよりもなによりも最大の失策は、この構造を、見抜けなかったチーフ・プロデューサーの城谷厚司の責任であろう。もし演出家としての目があったなら、こんな脚本などは、引き受けなかったはずである。それは、夏木マリにも言える。目があるなら、こんな役を引き受けるべきでなかった。なにより城島は、辻褄会わせの演出をする前に、担当として、引き受けなければならぬなら、脚本の書き直しを要請すべきであった。

 だが、この期におよんで、実は朝ドラの隠された真実が、現われたというのが明らかになってくる。これは脚本家もまた流さされてしまったのだが、個人という人間像を描いていたドラマは終回になって、人間よりも教育効果、大衆啓蒙主義を前面に打ち出してきたのだ。城島は、いう。

 「教育は子供への投資ではない、子供を叱る前に、まず親の生き方が問題...頭ではわかっていてもなかなか実行できるものではありません。しかし逆に言えば、自信を持って堂々と生きてさえいれば、子供は必ず見ていてくれる。そんなメッセージにも聞こえます。
 
 この演出の言葉のなんと無意味。かつ現実ばなれしたことばであろうか。90年代以降の日本の社会をまったく無視した、言葉の行列でしかない。NHK空間からこの時代を眺めている姿勢でしかない。「自身を持って堂々と生きていさへすれば」というこの行為を、説く前にもっともっと人間の直面している社会状況を認識する必要があるはずだ。そして、やはりこの「カーネーション」も、これまでの朝ドラとおなじく、貧困を覆い隠して、豊かさの幻想にまみれたインドのミュージカル映画と同じ構造にとどまることになったのだ。まさに蛇足としかいいようのない、この結末編を付け足す必要などなかったのだ。演出としての事情に沿って、脚本家渡辺あやは、NHK朝ドラとしては、新機軸の人間ドラマを、最後で放擲した。これがまた朝ドラの制約である。同時に現代社会を表現できないというドラマの限界を示している。現代を描ける朝ドラは、今後も可能であろうかと、ふたたび思うのである。

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がんばる季節が終わる

2012-02-29 | Weblog
 今日で2012年2月29日が終わる。速すぎる。約束もせず、返信もせず、会に出ず、公用、私用もやらず、可能な限り何もせずに、時間を自分だけのために捕獲しつづけているのだが、それでも時間は足りないのに、もう2月が終わった。テレビは朝から晩まで「がんばれ、がんばれ」を叫びつづけているシーンの連続にしかみえない。

 「がんばる」というのは、きわめて人間独自のことばではある。つまり人間らしい生き方を実現するための「がんばる」行為の高貴さが、滴り落ちるシーンである。しかし「がんばる」は、どんな行為にも意志にも使えるのである。振込み詐欺の一団も朝、今日もがんばれと声を掛け合っているにちがいない。警察官も治安保持にがんばるが、犯罪者集団も今日も法を犯す行為にがんばる。殺人鬼も、独裁者も、民衆も、報道記者もテロリストもがんばるのである。

 では、反対に「怠ける」ということばは、これも人間独自のことばであるが、だれにでも使えない。詐欺団に使えば、詐欺は成功しない、警察に使うことは法治国家がなりたたない。「怠ける」とは、だから意志として、意欲としては成り立たない。怠けるとは、たんに否定的な人の状態、病態、欝、役立たずの形容詞なのであろう。しかし、「怠ける」は意思的にやれる人間的行為にも転化できるのである。しかも、だれにでも適用できないこととして「怠ける」はさんぜんとして光をはっするのである。

 殺人鬼にでも使える「がんばる」を、ぼくのまわりの人間には使いたくない。もちろん、一番使いたくないのは、僕自身についてである。さらに大事なことは、どうすればがんばらないことを、朝から晩まで保ちながら、人生を充実して生きられるかが、これが、問題なのである。

 そう、それには、努力をしないということである。つまり努力を快楽に変えることである。快楽にかえられない努力はしないということである。つまり欲望充足を、最小減のエネルギーでやることであろうか。それは、これまで何回が述べてきたことだが、あの南米の動物「ナマケモノ」の生き方である。この小動物は、緩慢な手足の動き、一歩進むにも何十秒もかかる動きで、ジャングルの生存競争に生き延びている。答えは、この超スローの動きが、猛獣の視界に認識できないからであるという。しかも樹上から、地上に降りないで一生を過ごすから、より危険は避けられる。そして、一日数グラムの木の葉で生きられるような生体であり、結果があの緩慢きわまりない行動となっているというのだ。

 エネルギーを使わないということは、ぼくには出来ない。しかし、がんばるというエネルギーを使わないことは可能なのである。つまりやっていることが、快楽であるかぎり、がんばるということとは、異次元の世界に生きていることに変わるわけだ。たとえば、自転車で、30キロ先の西都市に行く場合、海岸線と坂道の5回ほどくりかえされるコースを取る。なぜなら快楽がより深くなるからである。どんなスポーツにも快楽がある。自転車はそれをもっとも選びやすい。また読書、もしくは勉強という姿は、他人からもっとも「がんばっている」という賞賛を受けやすい努力す姿である。さてぼくの読書は、がんばるというよりは、金を消費する、いや消費できる快楽にすぎない。その本におそらくわりあてられた一ヶ月を、書斎で読むよりも、何倍もの時間を、マクドナルドでよみ、タリーズで読み、サブウエイの快適な照明で読み、温泉の休憩室で読み、最後の1ページは、たいがい、温泉で終わるようにアレンジする。この時間は、まさに外国旅行をしつつけているようなものである。付き合いを止め、仕事をせず、義理をはたさず、日常用務を一日延ばしにして読書の快楽にふけりつつける。これが読書である。その他、いろいろ、さまざま、怠ける行動に転化可能である。

 だから、ぼくはいつも思うのだ。がんばれとか、もちろん、なまけよとかも、言わないことにしている。それは、他人に告げてわかるものではないからだ。こんなことばは、無意味なのだ。そのその意味の凄さ、深さよりも、浅はかな軽さが空中に舞う。ほんと、いわないが、口答にしないのが、花なのである。
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有料道路とは何、その指示言語の身勝手さ、出鱈目さ!! 解ったことは

2011-11-03 | Weblog
 翌日、ホテルで不眠の一夜を明かして、40年ぶりに坊津へみなを案内したが一変してしまって、記憶の断片するそこで見出すことは不可能であった。それに鄙びた博物館は、「南さつま市坊津歴史資料センター輝津館」となり、威圧されるような巨大な建物となっていた。40年前の木造平屋のどこか荒物屋風の家屋に空海の親筆や、おどろおどろした密貿易の一品がならべられていた親密さはなくなっていた。その博物館は、峠道の傍らにあり、ここから湾を隔てて坊津の町がみえた。今は、ただあたりを睥睨する歴史資料センターというこのデザインのビルには金がかかったろうという感慨だけがあった。

 坊津から枕崎を経て、半島の海岸道路を開聞岳のある指宿へ向けて走るのだがあの風光明媚、茶畑が広がる柔らかな風景は、まったく消滅していた。いや、こんな風景は果たしてあったのかどうかさへ、わからなくなった。あれは夢の風景ではなかったのか。畑は掘り返されて、店舗や工場や、マンション、老人ホームスポーツ施設が点々とならび、道の両脇は潅木が連なって、海の風景も見えなくなっていた。ただ、交通道を指宿へ向かってひた走る気分しかなかった。この中で開聞岳だけが、見上げるようにそそり立っているのだけが記憶のままで、あの夏、小学校5年と1年のこどもをつれて、いきなり、この山に登ってしまったのを思い出す。よく登山気分になったものだ。それほど自然は感動的であったのだろうか。2家族を、ぼくの40年前の記憶だけを信じて案内してしまい、申し訳なかったという気分だったが、話は、はずんでいった。いよいよ帰りは、頴娃からスカイラインに入り、無事に鹿児島インターに着くかどうかを試してみることにした。鹿児島にはいったら、ぼくは加治木から隼人道路に入るので、ここでお別れとうことを告げ、加治木で合図してさっとわかれようということになった。

 それぞれに帰途は遠いので、かなりのスピードで、スカイラインを走り抜けていく。やっぱり川辺出口もあった、かなりの高所であった。道路は思っていたのと違って狭く曲がりくねり、たんに天空にある道路なのででスカイラインと名づけたのか、当時はこれでも一般道路よりは広く舗装も滑らかだったのだろうと思われた。あっという間に鹿児島インターについた。今回は620円の頴娃からの料金を支払った。ところが続いて、スカイライン出口で310円硬貨を投げ込んで、鹿児島有料道路に入ったのだ。この310円はいったい何、疑問は残ったまま。

 熊本へ向かって走る友人たちの車を見ながら、加治木インターで、どんな風に別れの挨拶の合図を送ろうかと、考えながら走っていくうちに姶良を過ぎ、加治木の見慣れた家内の郷の風景が流れ出した。そのまますーと隼人道路のほうに入るので、フラッシャーが、よく見えるようにしなければと、距離を詰めていくと、なんと、隼人道路への指示がどこにも見えないのだ。どんどん出口は近づいてくるのに、無い。あ、かすかに右に出口と札のようなものが見える。しかし、自動的に繋がるのはどここか、だって、スーと入ったのだから、あるはず、そのとき、左上に『宮崎道』と下がっていたので、ほっとして、左の走行路線に移動したのであった。先日ここから帰ったという家内に聞くと、この走行線だというのだった。友人からフラッシャーが送られだした。ぼくも挨拶のフラシャーをしているのだが、出口が見つからない。別れようとしたが別れ道がないのだった!!

 「おい、ここは違うんじゃないか」「ここなのよ」
 「なら、出口はどこなんか」「そんなものは知るもんですか」
 「知らぬ?出られんのか、ほんとに」「走っていれば自然に出られるのよ」
 「おい!溝辺とある、これは違うわ」「私もこのまえ迷ったので、料金所の人に聞いたらこのまま 走っていれば自然に末吉に着くか らと、絶対、間違いないわ」とあくまでここで間違いないと言うのであった。

 と、左側に鹿児島空港が広がりだした。「これは、飛行場じゃないか、この道が隼人道路につくはずはないじゃないか。これは間違いだ!」「だったら、降りたらいいじゃない」「今更降りられるか、何で自分がそんなに正しいと言い張ったのだ。我執女」「我執はあんたでしょうが、自分が正しいと思ったら、わたしに聞くことはなかったでしょうか、自分で判断していけばよかったのよ」「そうしようと思ったら、おまえがここだここだとわめくから、こんな目にあったんだろが」「うそ、そのときは、もうひっかえせぬところにきていた、自分がまちがっていたんよ、それを人のせいにする、卑怯者」と、応酬が飛び交う間に宮崎まで98キロの標識が大きく目に入った。帰りは青井岳温泉に入って午後6時ごろ帰宅と話し合っていたのだ。代わりに100キロも迂回せねばならない。「温泉は止め、高速料金もお前が払え」というなり、お互いに口も聞かなくなり、夕べの不眠の疲れもどっと出てきて、気が遠くなりそうな気分で運転を持続していったのだ。

 翌朝、疲れも取れて、なぜ、こんな間違いをしたのかと、地図や道路情報を調べだすと、たちまち理由は、高速道とか有料道とかいう概念というか、常識がまったく役に立たぬということが分った。常識で走るかぎり、間違うのだと理解できたのであった。その常識とは、なんなのだろうか。自分だけが、そんな常識に埋没しているのかどうかも検討しなければならないので、何人かの人にも質問もしてみた。

 まず、何人かの知人や職員に福岡へ車で走るとき、道路は何を使うというと、みな高速で走るという。その正確な名前はときくと、有料道路といってみたり、九州自動車道路といったものが5人中1名であった。では、宮崎市から、えびのまでの道路はなんていうのかと聞くと、誰も知らなかった。「宮崎自動車道路」というと、おどろいていた。そんなら清武町から西都市に行ける有料道路の名前はときくと東九州自動車道路とは、だれも答えられなかった。次に末吉から隼人道路にできた道路も東九州自動車道路だと言うと、驚くのだった。
  
 九州自動車道路に対抗できる東九州自動車道路というわけだよね。夢の断片があちこちにあるのを、まとめて東九州自動車道路といってるわけで、納得であった。じゃあ、南九州自動車道路はどこにあると聞くと誰もしらなかった。それは鹿児島から市来へはしる海岸へ向かう道路だ。南九州といえば、宮崎だけではないのだな。それなら西日本高速道路とはどこでしょう。へえ、どこか福岡、門司などなどみな考えだすのだが、これは、いわゆる高速道路名ではなくて、九州や山口やの九州自動車道路や東九州自動車道路などを指す「名称」なんだよ。では「福岡高速道路」「北九州高速道路」はどうですか。これは「道路」そのもので、都市の中を車だけが走れる高速有料道路なのだという。さらに、数年まえに延岡市郊外から、日向市へ走れる道路は高速道なみの道路だが、一般道路で延岡ー日向道とだけ記載した地図もある。実際は東九州自動車道の構成部分で、延岡-日向間で、延岡-延岡南間が延岡道路(無料)延岡南-門川間が延岡南道路(有料)、門川-日向間が東九州道(有料)となっている。こんなふうに調べていくとだんだん覚えられなくなってくる。それになんか虚しい。遠い世界の出来事に思えだしてくる。どんどん道路はあちこちに高速道、有料道なみの道路ができだしてきているのだ。こんなことを、改めて知ったのである。

 これを知ってないと、「宮崎道」といっしゅんに見て、常識に従って宮崎につながる東九州道へ入れると誤解してしまうわけである。

 ネーミングには、道路の機能と種別が、厳密にふくまれてはいないのだ。だれかが、高速道路と有料道路はどこが違いますかと質問した例があった。かれは宮崎道とかは有料道路ではないとかん違いしていたようである。東九州道路という道路は高速道路であるとも勘違いしていた。九州道と違って、この道路は高速道ではないのだ。新しく出来た末吉から隼人道路を経て、九州道路につながる東九州道は、制限スピードは70キロで、出口の隼人道路は一般道路であるから60キロである。入ってはしっているかぎり、そんな区別はわからない。どういう理由で東九州道路の制限速度は、九州道の80キロとは違うのか。まだ、未完で将来の成長をまっているのだからといえば、九州道と同じレベルの名前をつけるのは理論的にも法的にもまちがってないか。犬の肉を牛肉として売り買いするのと、同じではないのかと、思うのだ。また、道路というのと、道だけ、高速道というのと高速という場合は、その道路は違う場合がある。しかし、地図にも案内図にも九州道路は九州道と記されいるのがある。しかしなんで九州高速有料道路といわないのだろうか。今、九州道と「自動車道路」というべきをつづめて書いたが、これは、厳密に言うと間違いかも、延岡南道路というと、有料バイパス道路であったのだ。高速道と言っても高速自動車道とは、意味がことなってくる。しかし通常の話ことばで話せば、九州道が一番分りやすくなる。いちいち宮崎自動車道路といわないわけだ。しかし、場合によっては自動車をつけると、つけないで変わるときもあるのである。

 こうして、分ったのは、「道路」という機能的な都市インフラが、単純明快な機能、高速とか有料とか、バイパスとかでまとめられなくなっているという現実である。だんだん気分や情緒で、道路をネーミングするしかなくなっているのではないかと思えることだ。あえて言葉を使用しないで、国道のように10とか220とかで表現すれば、簡単明瞭ではないのかと思う。たとえばM1なら、ロンドンからエディンバラへ至る高速道路というようにだ。国道10号というように。ただ高速道路は、なんか国道とは一段上の道路という意識が働いているのだろう。ハード尊重、モノを神格化する意識があるのかもしれない。単に戦艦、軍艦と位置づけられずに戦艦大和と命名して、別格に神格化していく意識は生きている。道路と切って捨ててアルファベットABCと数字1,2、3の組み合わせで表現するには恐れ多いと戦後の高速道路を畏敬する精神のためかもしれないと思うのだ。
 
 家内はもっと、自動車道路について、勉強すべきだったのだとぼくをたしなめる。そうかもしれない、と、今はそうするしかないと反省しきりでもある。身勝手とか出鱈目とかは言い過ぎたか。ただ、しかし、道路が、あちこち、こまごまときれぎれに地方の事情に応じて建設されつづけられ、バベルの塔のようにまとまらぬようになった。そのために言葉によるネーミングが、不可能になってきている現実を、あらためて知ることになった。機能、均質化が必然的に多様性を帯びて、言葉でまとめられなくなった。バベルの塔の出現であろうか。なんかがたしかに、間違っているのかもしれない。そのなにかとはなんだろうか。もっと厳密に調べてみたい。
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有料道路とは何、その指示言語の身勝手さ、出鱈目さ!!

2011-11-01 | Weblog
 
 坊津 枕崎、開聞岳への3家族ツアーは、ホテル・移動については経験したこともないほどのさんさんの旅であった。不快というより、苦痛を舐める経路であった。もはや旅の楽しさは、友達家族に会えたよろこびだけであり、それなら、こんな観光を目的とせずに、ただ、ひたすら快適な温泉旅行に限定すべきであったろう。美味しい食事をして、ホテルの広い温泉を楽しむという贅沢なゆったりした日程を、組むべきであった。

 この旅の予想もしなかった不快と苦痛は、高速道によって与えられた。さて、物語は先週の雨の土曜日(10月29日朝)から始まった。長崎県雲仙市および熊本県合志市に暮らす友人夫妻二家族と、一年ぶりの再会で、南薩摩観光を計画して、まずは同日11時半ごろに、川辺町道の駅やすらぎの郷で、合流することになった。そういうことで、かなりの距離を無事に間に合えるようにと、今回は高速道で宮崎ー都城インター間を走り、ここから10号線に降りて末吉で、新しく出来た有料道路に入れば、そのまま高速道路の加治木インターチェンジに自動的に入れて、鹿児島インターへ、そのまま指宿スカイラインとなり、その川辺インターで降り、約10分で「道の駅川辺やすらぎの郷」で合流できるようにした。高速道路の時間と一般道の距離をチェックして、2時間30分で余裕を持って到着できるとも分った。われながら、周到なる経路のチェックを終えたのだ。

 無事に加治木インタにスムーズに流れ込み、そのまま一気に鹿児島インターへとひた走ったのだ。まちがいなく予定時間どおり鹿児島インターを出て、指宿スカイライン入り口に着いた。そこで310円というコインを機械に投げ込むと、バーが開いて、スカイラインに入れた。ちょっと変だと思うのだが、310円という前金でなら、どこで降りても同じ料金なのかと、ふと思ったのだが、そもまま走っていくと、なんといつの間にか、一般道路に出ているのであった。家内に出口が無かったのに、この一般道路は可笑しい!というと、可笑しくはないわよ、指示通りに走ってるのだから、川辺への出口があるのよと断定した。

 しかし、なんで、こんな一般道路がスカイラインかよと、言い争って走るうりに、家内が突然、今、川辺方向は右と表示があったというので、そんなもんは出口じゃないじゃないかと言い合いしているうちに、どうも、走っている道路は、まちがいなく一般道路としか思えなくなりだして、引返して、川辺への道路標識まで行き、そこから右折することにした。しかし引返したが、その標識板はなく、ほんとにそんな道路標識を見たのか錯覚じゃないのかと鋭く問うと、見たわよ、でもないじゃないか、みたものはみたのよ、確かこの道路よと言うので、とりあえず、こんどは左折したのだ。左折すると、ガソリンスタンドが直ぐにあったので、そこに立ち寄って、川辺町の道の駅を聞いた。すると、この坂を上って、越えると、道の駅はありますと言われた。ついでにスカイラインはどちらでしょかと聞くと、今しがた右に走り出ていたはずのスカイラインは、右の4キロほど先といわれた。右に出たのになぜまた右にあるのかと、また不安がぶりかえした。するとこの道路は、道の駅に到着できるのかどうか、はるかな、回り道になるかもと、おもえだしたのだ。
,
 坂道を登っていくと、濃い霧につつまれ、方向もわからなくなりだしてきた。落ち合う時間をみると、すでに11時25分になっていた。そこで、家内に、長崎からの友人に電話してもらった。すると彼はすでに到着していた。挨拶を繰り返す家内に、そんなことよりもこの225で着けるのかどうか聞いてと、せかせると、やっと225で大丈夫だといわれたと言うのだ。しかし、時間は、だが、時間を聞くにはこの位置はどこか言わねばならないと知った。聞いても無駄だったのだ。しかし、峠を降りると、霧も晴れなんとすぐに「やすらぎの郷」が、道路沿いあり、駐車場に車がいっぱいとまっていた。ほっと安心すると、家内が、ここには違うと言い出した。どうしてと聞くと、道の駅と看板にない、ここは違うよと言い出した。言われてみると、そうかもしれないと道の駅にしてはおおきすぎる。また電話すると、友人が、なんと近くから電話する姿が見えた。ここが目的地『川辺道の駅やすらぎの郷』であった。どの案内者、旅の雑誌にも、道の駅川辺やすらぎの郷と詳記されていたのだ。道の駅が無いとは、たしかに家内の主張するとおり違うと思われてもし方が無いはずだ。そのいい加減さは不愉快であった。

 つづけて、すぐに熊本県からの友人夫妻も到着した。さて、ランチの席での話しであった。スカイラインが一般道に変わってしまって大慌てになったと話題に提供すると、長崎からの友人もであった。かれはカーナビも装着し、旅なれて全国の道路事情にも詳しいのに、スカイラインの表示通りに出たのにと言うのであった。話はつぎに、スカイライン入り口の料金310円に及んだ。あの310円がそうだったのだろうと、一般道路に出るので、入るときに料金とったのだろうとお互いに納得できたのであった。と、熊本県からの友人が、ぼくたちは、出口で250円とられましたよ、なんでというのであった。かれらも深い霧でヘッドライトを照らしながら峠を降りてきたというのであった。これもまた不可解、どうしてかれらだけ250円の料金を取られる出口にでくわしたのだと。おそらくスカイラインをそのまま走り、川辺町出口から出たのだ。こちらが、まちがって中途で一般道路に出てしまったのだ。地図では、スカイラインには川辺出口とたしかにある。とするなら、あの310円は、なんの料金だったのか。だれもはっきりしないのだ。

 帰りは、このスカイラインを終点頴娃(頴娃)から入って確かめてみようということになって、その話は終わったのだが、帰りには全員で、スカイラインの終点から入っていった。このことで、こんどは、ぼくは、予想もしなかった、とんでもない目にあうことになったのだ。
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東日本大震災 復活あらずや

2011-04-23 | Weblog
 どう復活できるのか。時代は変わったという意識を感じ始めた人が多くなってきた。これまでの日本ではだめだという直感が人を揺り動かしている。今度こそは、この意識が社会変革を実現できるのではないかという思いがする。さらにぼくらの日常にも危機感と、不安、焦燥、やり場の無い怒りを深めている原発事故がある。その原子炉の危険性を抑制できる方法として、なんと60項目を越える工程が必須とされ、さらに6ヶ月はかかるという。それもかならずしも成功が保障されているとは言い切れぬという。これが成功すれば、ようやく放射能の流出が止まり、さらに原発が廃棄され墓におさまるまでには、最低でも10年はかかるのだそうな。そんなバカな、こんなことが想像できていたのだろうか。これが原発だと腹の底から認識できた。これから数年は、危機と不安の原発事故処理がまだまだ毎日つづく。いきなり身一つで避難を強制された被災者には、耐え難い日々が、終わりもはっきりしないままにつづいていくことになるのだ。

 復活とは、まずなによりも一刻も早く、被災者が生活が立つような暮らしが、自分の街にもどってくることだろう。それと同時に二度とこのような悲劇が起こらぬ安全な暮らしのできる日本社会の再編成であろうと思う。

 そのような新しい日本を想像すると、脳裏を占めてくるのは、東京都直下型のマグニチュード8以上の大地震がいよいよ発生するという予感である。また東海、東南海、南海プレートの大地震の接近である。これで浜松原発の破壊、首都機能の麻痺、放射能による都民1000万人への避難指示となったら、どうなるのかという現実を想像するのである。東日本大震災が、その現実を想像させてくれもする。今や、われわれは、必ず墜落するという旅客機に乗って、永遠に飛行しつつけているような登場者の1人、1人でしかないのではないのか。こんな人生になんの意味があるや。

 ぼくは、美しい街、今朝、NHKのテレビ、九州に美しい都市を、生き生きした安全な街を、誰でも楽しめる街を実現しようとぺらぺら発言している脳天気な男の談話を見せられた。この都市論者がアホ面をさらしていたが、東京都が爆発蒸発する日本を改変しなければ、そんな妄想都市は実現不可能なのが、どうしてこの期に及んで想像できないのだろうかと、あきれ果てた。

 復活があるとすれば、まず東京都の分解に着手しなければならないだろう。すくなくともさしあたり、首都行政機能を九州、中国、北海道、東北などに移すことであろう。地方自治体の強化、つまり蛸の足のようにそれぞれに中心的頭脳を実在させることが必要であろう。

 そのような大掛かりなこととは別にだれでも出来ることに石油と電力に100パーセント依存しないライフスタイルの確立である。これは、個人の目標である。さらに生きる哲学として、これまでは「こぼれ落ちる若者」と侮蔑されているライフスタイルの新しい評価が必要であろう。働かない、稼がない、そこに現代文明を制御できる方法はないのかという、価値の発見などがいる。サバイバルできる体質と行動力を日常の暮らしのなかで鍛えていける労働的な生活技術の習得、それでいて楽しめる現代文明の享受をも失わない欲張りな生活がしていける能力の習得を目指すのだ。
 
 景気がこれによって、どん底に落ちていってもしばらくは耐えるしかないのではないのか。なにしろ復活とは、これまでの不安なノイローゼ的な、着陸空港を喪失した旅客機の乗客からの脱出を試みるのだから、貧乏などなんの苦でもないはずである 
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東日本大震災 復活あらずや

2011-04-23 | Weblog
 どう復活できるのか。時代は変わったという意識を感じ始めた人が多くなってきた。これまでの日本ではだめだという直感が人を揺り動かしている。今度こそは、この意識が社会変革を実現できるのではないかという思いがする。さらにぼくらの日常にも危機感と、不安、焦燥、やり場の無い怒りを深めている原発事故がある。その原子炉の危険性を抑制できる方法として、なんと60項目を越える工程が必須とされ、さらに6ヶ月はかかるという。それもかならずしも成功が保障されているとは言い切れぬという。これが成功すれば、ようやく放射能の流出が止まり、さらに原発が廃棄され墓におさまるまでには、最低でも10年はかかるのだそうな。そんなバカな、こんなことが想像できていたのだろうか。これが原発だと腹の底から認識できた。これから数年は、危機と不安の原発事故処理がまだまだ毎日つづく。いきなり身一つで避難を強制された被災者には、耐え難い日々が、終わりもはっきりしないままにつづいていくことになるのだ。

 復活とは、まずなによりも一刻も早く、被災者が生活が立つような暮らしが、自分の街にもどってくることだろう。それと同時に二度とこのような悲劇が起こらぬ安全な暮らしのできる日本社会の再編成であろうと思う。

 そのような新しい日本を想像すると、脳裏を占めてくるのは、東京都直下型のマグニチュード8以上の大地震がいよいよ発生するという予感である。また東海、東南海、南海プレートの大地震の接近である。これで浜松原発の破壊、首都機能の麻痺、放射能による都民1000万人への避難指示となったら、どうなるのかという現実を想像するのである。東日本大震災が、その現実を想像させてくれもする。今や、われわれは、必ず墜落するという旅客機に乗って、永遠に飛行しつつけているような登場者の1人、1人でしかないのではないのか。こんな人生になんの意味があるや。

 ぼくは、美しい街、今朝、NHKのテレビ、九州に美しい都市を、生き生きした安全な街を、誰でも楽しめる街を実現しようとぺらぺら発言している脳天気な男の談話を見せられた。この都市論者がアホ面をさらしていたが、東京都が爆発蒸発する日本を改変しなければ、そんな妄想都市は実現不可能なのが、どうしてこの期に及んで想像できないのだろうかと、あきれ果てた。

 復活があるとすれば、まず東京都の分解に着手しなければならないだろう。すくなくともさしあたり、首都行政機能を九州、中国、北海道、東北などに移すことであろう。地方自治体の強化、つまり蛸の足のようにそれぞれに中心的頭脳を実在させることが必要であろう。

 そのような大掛かりなこととは別にだれでも出来ることに石油と電力に100パーセント依存しないライフスタイルの確立である。これは、個人の目標である。さらに生きる哲学として、これまでは「こぼれ落ちる若者」と侮蔑されているライフスタイルの新しい評価が必要であろう。働かない、稼がない、そこに現代文明を制御できる方法はないのかという、価値の発見などがいる。サバイバルできる体質と行動力を日常の暮らしのなかで鍛えていける労働的な生活技術の習得、それでいて楽しめる現代文明の享受をも失わない欲張りな生活がしていける能力の習得を目指すのだ。
 
 景気がこれによって、どん底に落ちていってもしばらくは耐えるしかないのではないのか。なにしろ復活とは、これまでの不安なノイローゼ的な、着陸空港を喪失した旅客機の乗客からの脱出を試みるのだから、貧乏などなんの苦でもないはずである 
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貧乏について考える

2011-04-09 | Weblog
 自粛運動について、熊本県では、行き過ぎた自粛を止めよう宣言を出したとか聞いた。また、国会でも自粛運動が問題視されだした。与謝野財務相は、これは経済的に言えば不買運動であると語った。なるほど、言いえて妙であるが、運動というよりは、心理的なものであろう。自粛したいものは、自粛するしかないほど事態は重いのだ。ただ、全員一致で決定するのが、可笑しい。

 やっと、春らしく暖かい週明けになってきた。昨日、イオンショッピングモールに入ってみると、モール内は、閑散とした場内に一変していた。新学期が始まったせいもあろうが、この冷えこみをみると、人々の消費意欲の萎縮を目の当たりする思いであった。冷えてしまったのだ。しかし、イオンのある4車線の山崎街道を走って通る自家用車の多さは、目を見張るばかりであった。ほとんどが新車であり、ハイブリッド車も多く、あのリアがピンと飛び上がった、アンバランスの車体が疾走している。それになんとほとんどの新車もこのピンハネスタイルになってきている。その流れは、中心市街地でも国道10号線も、220号線も同じであり、まだまだ日本はモノの豊かさに圧倒される思いであった。

 前回当ブログで、ぼくは貧乏への冒険、貧乏への意思つまり貧乏を人生の目的にしようと書いた。こういうことが言えるのも、貧困でないからである。いくら努力しても、貧困から脱出できない貧困の現実に生きているなら、こういう暢気なことなど言って入られるわけがない。好んで貧困を楽しもうというのは、貧困ではないからである。つまり、この冒険は、消費の否定であり、不買運動に後先もかんがえずに飛び込んで自分1人を楽しんでいくという行動でしかないともいえよう。こうして1人の善が、全体ではおそるべき悪となって、理論的に言えば日本経済を破壊することにつながるかもしれないともいえるばかげたアイデアになる。

 自粛運動もそうだが、貧乏運動も消費を萎縮させれば、モノがありあまって不況になり、非正規社員は首を切られ、新卒者は就職先がなく、貧乏人が溢れて、貧困社会になる。という、可能性は大いにありうるであろう。

 では、反対に貧乏運動を無意味として排除してしまったら、どうなっていくのだろうかと想像してみよう。ぼくがいつも、なにかにつけて回想してくるのは、モノでは適えられない心の豊かさをという社会の実現への提言である。このスローガンが巷を覆ったのは70年代の石油危機で、高度経済成長に急ブレーキを懸けさせられた時代であった。もういい、モノはいい、心の豊かさこそ人生の目標と日本全土で確認されだした。当時、石油はあと20年で尽きると信じがたいばかげた情報も人々を懲らしめるの有効であった。公害運動もそれによって押さえ込まれていった。しかし石油価格はたちまち値下がりして、たしか、10ドル台、現在の10分の1の価格となった。この資源を原動力にして、生産性の革新によって、日本企業はたちまち世界中に自動車、電化製品、その他の技術集約型の製品を輸出しまくり、10年後には、アメリカにつくGDP世界第2位、一人当て所得第一位、世界第一位の債権国、外貨準備高世界一位、経済大国として、世界中の賞賛と非難を浴びるようになったのだ。

 アメリカを中心とした先進国から円の切り上げ、貿易黒字の解消、内需拡大をやれと袋叩きにあって、140兆に及ぶ内需拡のための財政・金融政策を実現せざるをえなくなった。こうして使われるありあまった金は、すでに目標を達成できた技術革新や設備投資に持っていく場所がなく、不動産と株式の投資にむけられ、企業の大半は、本業よりも財テクという名の投機にのめりこんだ。また、主婦までも株式投資や不動産売買に熱狂した。この投機熱は、80年代半ばからもは妄想的愉悦感ユーフォリアとなって、バルブ崩壊へとなだれ込んで自滅したのであった。石油危機の10年後のことであった。「心の豊かさ」どころか「心の破壊」がわずか10年で起きたのである。

 たしか、アメリカの行動心理学者のマズローは、人間の自己実現について、モノの豊かさの最終段階において、芸術とか、愛とかの豊かなる思いに満ちた人間としての自己実現が現れるといっている。しかし、人間の欲望には限りが無いということをかれは見落としていたのではないかと思えるのだ。豊かさの追求に終わりがないのだから、最終段階が現れないはずだ。むしろ、ユタかさのかぎりない追求のなかで、心身の衰弱と崩壊が待ち構えているのである。このよに豊かさは危険きわまりない深淵を空けているのだと、思う。

 そこで、ふたたび貧乏運動を考えてみよう。貧乏運動の1人善がまず全体運動となる確率はほとんどないということである。それは玄米食がいくら流行っても、日本人全体が玄米食にならないことと似ている。貧乏運動というのは、一つのライフスタイルである。思想とまでおおげさに言わないが、考え方にすぎない。しかし、かりにこの運動が、500万人ちかくの不正規社員や引きこもりの人々によりどころとなる思想になることは、可能なのかもしれない。それと、影響があるとすれば、消費の萎縮は、GDPを低く抑えていくことでしかない。日本の居住者の年間所得が、それほど増大しなくても豊かに暮らせる方法はありうるであろう。その結果、経済成長が低くなってしまうことは、これからの日本復活の革新なのではないのではなかろう。これは、これからの中国やブラジルに何らかの示唆を与える先進国の役割ではないかと思うのである。援助してくれる中国の優しさにお返しを、こういうことで準備できればと思うのである 
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国民の妹とはなに テント劇「ただちに犬 Bitter」つづき

2010-11-27 | Weblog
 この「国民の犬」とは、女子フィギュアスケートのキム・ヨナが韓国で国民の妹と呼ばれていると、テレビで聴いたことがあると思う。妹のように可愛いというわけ、つまり国民的アイドルだろう。ところが、はたしてそれだけですむことなのか。モモちゃんがおもしろがって「ただちに犬」で聴いた台詞を繰り返しているのを、ぼくらもやってみよう。国民のデイト、国民の数学、国民の宿題・・・とつづけていく。さて、国民の父、国民の母、国民の兄とだんだん広げていく。国民のスーパー、国民のテレビ、国民の買い物、国民の電車、国民の歯ブラシ、国民の電話、国民の洗濯機、国民の通勤・・・などと、家族、友人、暮らし、仕事などと拡大していくと、もはや国民的アイドルなどという可愛い姿などは消し飛んでしまう。「国民の○○○・・」となるだけで、こっけいになってしまうのである。観客はそのシーンで爆笑していた。なぜわらえるのか、国民の父といわれたとき、なぜ吹き出すのか、それは父という存在が虚ろになった実態をさらけだされてしまうからだ。そう、すべてが実態を失って、虚ろになる。私という自分までが、国民というものにかりとられて胡散無償して消滅し、国民という全体があたり一面にひろがりだす。まさにそれは北朝鮮国家の大砲砲撃である。それに対応するNHKテレビやその他の報道の画一さである。このあまりにわれわれの日常の実は正体をきづかされて、笑うしかなくなってくるのだ。モモちゃんにとっては、港小の校長先生、港小のPTA会、港小のクラスメイト、港小の便所、港小の卒業式などなど続けて唱えると、そういうことになりそうだ。もちろん、彼女にこんな発想は無縁かも、今の年齢では。

 舞台のやや汚れてくたびれてしまったキャンバス製の犬の縫いぐるみをひっくり返して、その後ろ肢の股の付け根から指で背中へ向けてなぞりながら、国境線があるという、四肢の先にはそれぞれの日本や海外のリゾートがあるとする。それは、世界が犬の縫いぐるみに縮小されてしまったおかしさである。ここでは、個人が夢幻の広がりをしながら主体となっている。ドンキホーテの自己幻想が、われわれを笑わせる。まさに国民の○○○での自己の無化と対象している。一方では無、他方では無限大、どちらにしても自己存在は消滅し、笑いだけが煌々と、テント内を満たしていく。どくんご劇の中心主題は、ここにあるとぼくは思う。

 おそらく、この台詞、つまり表現をしたのは、かれらのテント演劇活動によって意識された世界観であったと思えるのだ。それは頭や理論や、演劇的教養などでえられたアイデアではなくて、かれらの生き方が、どうしようもなく自覚を促す世界と自分の関係であったといえよう。だから、説得力があるのだ。つまりモモちゃんという純粋なこどもの心を動かす真実感があったのだ。

 このエッセイの初回にのべたようにぼくのどくんごテント劇のプロデュースは1995年の「トカワピークエンダワピー」であったが、実際に積極的に関わったのは、もっと早く1990年宮崎市の隣町旧佐土原町の一ツ瀬病院(精神科)で公演された同劇団の「パブリックな怪物 夢が役に立たないと、そうわかったので安心して眠った」であった。この劇では冒頭精神病院のシーンで病院長が登場、さんさん経営でわるいことをやると演じられ、観客の笑いを誘った。144名の観客のうち59名が一ツ瀬病院の患者であり、かれらの爆笑がすばらしかった。このころ、ぼくは1974年から宮崎市に来援していた黒テント(1968/71黒色テント)の上演を見てきており、1979年の「西遊記」「ヴォイ/チェック」「タイタニック沈没す」などと2004年の「ど」まで実行委員長を引き受けてきた。この黒テントも宮崎神宮神苑などで上演していた。外に「リダン」(実は漢字名)と今は名称さへ記録の無い「紫テント」が、新しいテント劇団として、市民をおどろかす公演をやっていた。このような劇団を比べてどくんごは、同じテント劇ながら、かなり違っていた。どこが違うのか、一言で言えば、どこかのほほんとしたエンターテイメント性をかんじられたのだ。とくに黒テントが、天皇制国家を問題とし、安保条約反対闘争の失敗などを扱い、昭和の時代の革命を模索するような反対制的内容を演じる思想性などはもはや無かった。またどこか学生っぽい若さがあって親しみやすかった。たしかにアングラ演劇とよばれた内容の激しさはうけついでいた。とくにリダンや紫テントはステージで火を燃やし、水をぶちまけ、裸、暴力といういわゆるアングラ的表現に力点が置かれて、もはやその衝撃を排してしてきている黒色テントの過去を想起させる激しさで興奮を誘った。それらに比べてどくんごは、なんとなく、思想性も衝撃性にも力点を置かずどこかのほほんとしたものがあったのだ。

 その後、アングラ演劇は小劇場運動としてさまざまの劇団・劇表現を生んでいった。そんな80年代となり、テント内でどのような表現を実現するかが、課題となり、挙句にテント劇は休息に消えていった。そんな時代の変化のなかで、ほとんど唯一といっていいくらいのテント劇団として「どくんご」が生き延びている。主催の伊能は、絶滅危惧種と笑っていたが、ここ数年、ふたたびテント劇での順延は、黒テントなどでも模索されている。時代はふたたびテントに注意を向けてきたのだが、実現している劇団はまだ皆無である。こんな流れのなかで、どくんごのテント劇だけがなぜ生き延びているのはそれだけの理由、つまり「なまけもの」が密林のなかで「生存競争」を勝ち抜いているのと似た生存可能性の理由があるのであろうとは、推測できるのである。

 そのひとつの理由として、ぼくは初期に感じた、街頭劇やテント劇ののほほんとした肩の力を抜いた特性があったのだろうと思う。思想性も革命も、教養もガンバリズムも経済も消費も関係なく、ただ好きなように生きているというだけの面白さ、その喜劇性が、すでに当時のアングラ劇を越えて新しさを持っていたのだといえるのである。テント内でふたたび表現を模索しながら、テントを捨てるしかなかったもろもろの劇団とくらべて、どくんご劇団のテントはすでにそのとき、かれらの甲羅になっていたのだ。中身はすでにおさまっていたのだと解釈することができるのである。この世界からまさに宙ぶらりんの生き方そのもの新しさが、80年代に確立されていたというのは、注目したい。

 さて、2010年11月の「ただちに犬 Bitter 」で、このエンターテイメントの笑いの要素がどれだけ有効であったかを、ぼくだけでなく観客の反応から検証していく必要があるのではないだろうか。どくんごの表現は2005年「ベビーフードの日々」から縫いぐるみの人や犬を登場させるようになって、笑いが複雑さと、他方単調さをもつようになってきた。ただ、2004年には映画「笑いの大学」ガ封切られ、2005年優勝賞金1000万円の漫才グランプリが開催され、笑いは表現として時流になってきている。この時流をつかめる時代をむかえているのだ。それが可能かどうか、どくんご劇団のふんばりどころであろう。その提言のいろいろかんがえるのであるが、ここでは、最後にもう一度モモちゃんに登場してもらって、ぼくの意に替えて提言してみたい。モモちゃんは、どくんごのシーンでつぎの台詞を記憶していた。しかも、毎晩のように今も風呂上り、自分のベッドの上で、この台詞で一人芝居を演じているというのだ。

 暗闇健太のモノローグを彼女はこのように記憶・再現して、これをノートに書いてぼくにあたえてくれた。

 「ある日、ばあさんが「ウイッ」とのんでしもうたのよ~~~。
  あのあのトカゲの目のように赤く血のように、どろどろにえきたいを~~~!
  ビールのむ、くすりのまない、ビールのむくすりのむ、どくのまない、のんでしまったのよへへへ!そんで「クイッ」とのんでしまったのよ~~~!それは人間のほかのものにするくすりだったのよ~~~!わしは、チョコレートになったのよ~~~!
かゆい、かゆい、かゆい、かゆい、かゆい、かゆい、かゆい、ここがかゆい。

 いやもっと上、いやもっと、もっと上や~!!
 あ~~~~~~
 わしは、ちぢんで、ちぢんで、ちぢんで、ちちんで、こんなに小さなチョコレートになった。ばあさんは、チョコレートの箱になってもんくも言えない。ビールのむ、くすりのむ、どくのまない。ビールのむ、くすりのむ、どくのまないや~~~~~~!」
(以上の台詞の行変え、その強調のための各種記号はモモちゃんの原文のまま)

 ぼくは、この台詞のおもしろさに仰天してしまった。それと台詞に加えられた強調のための感嘆譜の位置はモモちゃんが挿入したのだから、演出台帳としても、理に適っている。この表現のおもしろさを小学3年生の彼女が演出するかのように独自の視点で捉えていたのだ。

 そして、ぼくは、たぶんに多くの耳の遠くなってきた高齢者たちは、聞き取れなかったのではないか。そして、このおもしろさが爆発するまでには、至らなかったのではないのだろうか。絶叫の単調さが、誇張のひとりよがりが、観客を無視した印象もあったがひとりの少女にはこれほど心にとどくシーンでもあったのだ。

 かって、伊能はぼくらの演劇もまた「宝塚歌劇」と同じ構造ですよと言ったことがあったが、ぼくは、現在もこの構造に深く興味をもっているのだ。
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映画クヒオ大佐 を見る 詐欺師と世界

2010-05-08 | Weblog
映画クヒオ大佐は、詐欺師の物語である。詐欺師の話というのは、昔からお馴染みのテーマで何度繰り返されても、いつでも面白い。まさに古くて新しいテーマともいえるものだ。しかし、吉田大八監督のこのクヒオ大佐は、きわめて今様であり、今見るのがベストタイム、時期をはずすな、旬を味わえる現代の作品なのだと言いたい。その理由が、ここに述べる主題である。あなたが、まだ映画を観てないなら,観てから本論考を読まれることを願いたい。この映画のおもしろさには理屈など不要であるばかりか、へたな理屈は邪魔になるからである。

 映画はまず冒頭、第1部・タイトル血と砂漠と金の文字が毒々しいまでの筆致でスクリーンいっぱいに描かれ、1990年の第一次湾岸戦争のニュース映画が流される。日本は米国の湾岸戦争に120億の巨額な戦費をさしだしたが、世界中だれも感謝されなかったと、いう締めくくりで終わり、第2部クヒオ大佐となる。こんどは、真っ暗なスクリーンに小さなゴジック活字の白抜きに過ぎず、本編なはずなのにと、頭を傾げさせられる。だが、それゆえに湾岸戦争導入部の唐突感がいっそう深まり、理由がつまめず、混迷のまま物語に入っていくわけであった。第1部の時間は、後でビデオで測ると4分12秒であった。はたして、導入部と本編の接合をスムーズにつながったと受け取れた観客はいるのだろうか、もしいるとしたら、それはすでに先入観、前もっての情報で支配された結果ではなかったろうかと、ぼくには思えるのである。この唐突さが解消できるのは、見終わった後からでる。それも解消する意思があればの話ではあると思えるほど、この導入部は理解を拒むほど突飛とさへ感じられる。素直に見れば、要は、詐欺師としえ登場するクヒオ大佐は、米国海軍特殊部隊パイロットという役割の説明背景となるにはなるが、それを言うには、あまりに大げさである。冒頭の湾岸戦争シーンは、そこで、唐突さを意図した確信犯的な演出を感じさせられるのである。

 クヒオ大佐は、堺雅人によって演じられる。すでにこの起用で、詐欺師をどうリアルに描くは、解決済みとなったようである。かれのキャラクターは、まさに真実と虚偽の混じりじりあった人物像になっているからだ。先年、かれは「新撰組」「篤姫」のNHK大河ドラマで国民的人気をえた。その役柄を思いだしてみよう。どちらの役柄も、権力組織の中枢にありながら、そこから、はみ出している位置にある。新選組みでは、武力集団に属しながら会計、主計役であり、篤姫では、将軍でありながら痴呆者を装いつづけて、将軍職から責任を回避しつつける。強固な制度、組織から、はみ出し、転げ落ちる人生を自ら選んでしまっているのだ。だから制度・組織のがわからすれば、役に立たない虚な存在である。だが、このはみ出た位置からの視線では、つまりかれの意識をとおしては、将軍、新撰組の制度・組織こそが、虚妄でしかないことを納得させられる。この逆転により、視聴者の共感を呼び起こしたのだといえる。堺雅人の頭からスーっと虚空に消えていくような台詞のトーンは、なにを語っても真実を説くように感じられ、同時に語る内容を虚妄にしてしまう。そのことで真実は相対化される。こうして、すでに詐欺師は、完璧に現れてくるのだ。

 そこで、通常の詐欺師物語、スティングやオーシャンズ13などのように、詐欺の行動の徹頭徹尾リアルな手口、マジック的なだましの技の積み上げによるストーリー展開など不要なのだ。クヒオ大佐は、そのようなリアルさは必要としないのだ。それは目的とされてないというのに気づかされる。前の吉田監督の作品「腑抜けども悲しみの愛を見せろ」を見たとき思ったのだが、あの映画とおなじように、このクヒオ大佐にも、漫画の「駒割」のようシーンの連なりという感じがするのだ。そこに吹き出しの台詞があったり書き込みの擬音があったりのシーンをつぎつぎと見ていくようなかんじになってしまうのだ。これら駒割りめいたシーンは、演劇の舞台を思わせる。きっちりとした輪郭、だが日常の写実的な描写ではない。人物がリアルな映像として再現されているのでなく、一片の要素として、いうなれば「記号」として置かれてあると思えるのだ。その記号が問題であろう。つまりクヒオ大佐の詐欺のくどくどした手管の具体的描写はいらない。ここにあるのはクヒオ大佐を通して、詐欺の意味を、ことばで読んでいくような自由さがあり、象徴性を看取できるのであった。それが軽快である。

 もちろんこの記号化は詐欺を受けた女性たちの描写にもいえ、どこか現実の女性像というよりもクヒオ大佐と主語、述語の組み合わせになった様な静止しているような象徴化をなしてる。このあたりの構造的なことは、ややこしいのだが、これがぼくの印象だと言うほかはないのである、できれば最後まで読み続けて欲しい。

 つまり、クヒオ大佐が詐欺師として本物らしいかどうかというのは、この映画ではまったく抹消なことだといいたいわけである。たとえば、今頃、アメリカ軍パイロットであるということだけでふらふらと参ってしまう日本人などいるわけはないのだ。1950年代ごろまではアメリカは憧れの国であり欧米人にいかれるものも当たり前であったろうが、こんなことはありえないだろう。しかし、大佐には惹かれるものがある。それはあの凛々しい軍服である。すぐに思いだせるのは、漫画「沈黙の艦隊」の艦長、アニメ「ジパング」のヒーロー旧海軍の士官服姿である。ここにも記号化がある。その凛々しさという記号で、クヒオ大佐の真実感は、抵抗なく伝わってくる・・。以下次回に

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とてつもないつながり

2010-01-29 | Weblog
 ひさしぶりの小雨で、朝から降っている。氷雨でないのでそう悪くは無い。

 その後、三木ちゃんから「もしもしガシャーン」の宮崎公演の4月公演受け入れについては連絡がない。今朝、どくんごのブログを見ていたら、同劇団のたかはしみちこが、3月からのどくんごの練習に、参加できるか、ということは客演できるかどうかということを、どくんごに問い合わせていた。となると、この春の宮崎市公演はどうなるのだろうか。

 この「もしもしガシャーん」という劇団は、宮城県仙台市に1999年12月に旗揚げ。2004年埼玉県に拠点を移して、現在、代表は奈尾真、所属人はたかはしみちこのふたりだけの劇団である。活動暦も10年を越える。実は、2005年4年6月19日、20日、21日の3日間、宮崎市の東宮花の森団地での劇団「どくんご」のテント劇「ベビーフートの日々」に二人とも客演した。東北大学演劇部のオービーというが、当時二人ともまだ20代そこそこの男女に見えた。とくにたかはしみちこは、どこか保育園のやさしい保育士のようだった。だが、舞台では、港町の食堂に働く女となり、蟹をばりばりと食いちぎり、夫を責めるというグロテスクと純真さが同居する怪優ぶりで、その土の匂いのする土俗的存在感で観客を魅了した。その後、どくんご巡演で、多くのファンが出来たようだ。そのたかはしみちこと代表の奈尾真の二人が、宮崎市で上演をしたいということだった。それも、どうしても宮崎市でやりたい、手間はかけさせない、観客も20名もあればいい、場所も自分たちで探すからというのだという。その話は、小春の最終公演の日12月6日に東宮花の森の会場で、三木ちゃんから聞いた。その後、自分が引き受けたいと決意を告げたのだ。ぼくがやれないし、だれもやらないなら、自分がやるというのであった。

 そこで思い出すのだが、前回書いた、実行委員が5名で、チケットが各委員5枚しか売ることができないなら、25名でやればいいではないかということだ。ところが、このもしもしガシャーンの公演は、多くの公演で、定員25名を標榜していたのだ。この一致がおもしろいのだ。さて、話はここから進めてみたい。

 委員が5名、各人が5枚のチケットを売って、25名の観客で一夜の上演を終るという演劇上演にどんな意味があるかということだ。まあ、一般からみると、好きなものが集まり、世に知られてない、マイナーな芝居を、対抗文化として公演する。25名の観客と5人の実行委員が満足する。それは、おなじ穴の狢である。感動しようと、しまいと、社会には。なんの影響もない、さらに意味もなければ価値もない、ということになろう。これが、これが観客数から判断する自明(当たり前)の理であろう。

 しかし、芸術的イベントの影響は、参加者の意識がどれだけ活性化されるかにある。つまりそこで一人、一人がどれだけ自分であるかということが問題である。宮崎市の行政イベント「えれこっちゃみやざき」で人は自分を自覚するより群集に化して、その一員となることだろう。そこには芸術によるほんとうの開放感はない。じつは群集として疎外されているのだ。群集の抑圧が解放されるのは、暴力においてのみである。このような大量のイベント参加者になんの意味があるというのだろうか。

 さらにまた、この5名の実行委員たちと集った25名のネットワークは、わけもわからず、あるいは割り当てられた動員であつまった一人、一人の「ふれあい」とは、本質的に違う。このふれあいは、文字通り体がふれあっているだけである。ふれあいとは、お互いに意識が触れ合うことが必須である。つまり心が重なるというか、そのような相手の許容が必要になる。5名によるチケット販売を通して集まった25名には、じつは、物理的に隣り合った関係でない、ハイバーリアルつまり超常的な関係がじつは発生しつづけるのだ。

 5名と25名、すべてにとはいわないが、この結びつきには、想像も出来なかった縁が、じつは現れている場合が多い。ぼくは30年ほど、このような実行委員会の経験を重ねてきて、
そのような例は無数にある。たとえば、昨年の小春公演で、最初に共催を進んで引き受けてもらえた「天空ジール」の福田さんとの出会いであるが、じつは、ジールのスタッフで、イベントマネジャーをしている中島さんは、1994年、インド旅行をやったグループの一員であった知人中島女子の息子さんであったのだ。この事実だけで3人の話し合いは、遅滞なくすすんでいく。また小春マイノリティオーケストラでは、そのテーマというべき選曲「不滅の民」は、たまたま同日やってきた「どくんご」劇団のかってのテーマ音楽として使用されたことがあり、そのぐうぜんにかれらはおどろき、小春との共感が深まっていくようだった。

 テント劇どくんごにテント設立を受け入れてもらえたヨートハーバーの社長は、ぼくの知人とスキューバダイビングをする同好の志であったことをあとで知った。さらにその臨海公園の社長を紹介してもらえた松浦さんの亡夫とは20年ほど前、ぼくの実行委員であったしのぶちゃンらとヨット遊びをしたときヨットを操ってもらった人であった。これも後で知った。その他、こんな縁というものはまだまだ無数にある。この縁というものは、このネットを起点として、一挙に拡大していける。なぜこういうことが起きるのか、それは、あるイベントを自覚的に着手し、さらに一人、一人にチケットを売るという選別の瞬間に無意識的に、自分との関係性に根ざすことになるのだ。そういう意識のつながりに自分との関係のある人々が、現れやすいということになるのではなかろうか。人とはまさに関係性の中にしか存在していないのだ。

 意識して自発的に集まる30名のネットワークは、この関係性の人間らしさで、発展していく動因を内在している。不思議な真理ではないか。そこに希望がある。

 ということで、この5名+25名は、まさに小さな観客であるが、実は細胞でいえば大きな自己発展のエネルギーを内部にもっている集団である。これはたんなる群集として集まっている集団とは、本質的に異なった生きている細胞といえるかもしれない。
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チケット奮戦記 どくんご & 小春

2009-11-01 | Weblog
  全国巡演テント劇団「どくんご」は、今から4時間後にみやざき臨海公園にやってくる。この一週間はチケット売りはもちろん、その思案についてもいっさい考えないで、身心をリセットしてつぎに備えると、前回のブログには書いた。しかし、その停止させた流れにひたひたと別の流れがひたひたと不安な音をたてながら侵入してきた。こんどは、前の流れどころではない、激流となることはまちがいなく、どう降りきるかが、意識を支配しきっての一週間であった。やはりチケット売りの意識はとめどなくつづくわけであった。

 いよいよ東京都の公認資格「ヘブンアーティスト」をもったストリートミュージシャン小春と
そのマイノリティオーケストラの上演のためのチケット販売に取り組まねばならなくなった。宮崎市では3会場カフェレストラン「天空ジール」「清武町文化会館」」「東宮花の森団地東集会所」での公演であるが、清武と東宮は、ぼくがディレクターとして上演責任を担っている。つまり目標の
420枚を達成すべく「がんばる」ということである。その流れがひたひたと不安をかきたてる音をたてながら迫ってくる一週間であったのだ。

 チケットは容易に売れるものではないのだ。今日までテント劇で77枚を売って使えるカードも使いきっていた。実行委員の平均枚数は7枚で28枚で終わっていた。かれらが怠けていたわけではない
のだ。これが現実のきびしさを語っている。かれらは勤務時間にしばられている。バルブ崩壊、アメリカ発金融危機と、不況がつづいてきて、公務員であろうと会社員であろうと、自由業でさへ、
勤務以外のことに身心を使うことが極端になくなってきているのだ。チケットなどを売って回っている暇はない!これが現実である。おまけにボランティアによる自主公演のなんと多いことか、どこに行ってもコンサートチラシを手渡される。どこのホールやコーヒーショップやライブハウスの隅のパンフレット書架もいろとりどりの公演チラシがずらりと差し込んである。ひとびとはもうあきあきしているのだ。まずチラシそのものにである。チラシを手にすることも、まして一読してチケットを購入するなどとはしない。この環境の中で、一枚のチケットを売るというのは7,8枚が限界となるのもやむをえない、と理論的に結論づけると、そういうことではおしまいとなる。

 しかし、おもしろいことにチケットは売れていく。世の中は理論どおりにわりきれるものではない。不思議な幸運もある。この幸運をどうやってまねきよするか、いやそんなことは不可能、しかし幸運はある。ここを販売促進源として目標へむかって流れていくことが可能なのだ。なぜこうなるのか、それも理論化できない。そういうことで、このブログで小春公演にいたるまで、婚活ならぬ販活の日々を語っていってみようとするわけである。

 さて、泣いてもわめいても後3時間余り、今からチップの散歩をして、仏壇に灯明と水をあげて
朝食を作って食事を終わり、新聞か本を読むと8時半ごろになる、今朝は家内を乗せて会場に行き、家内には道を覚えてもらう。明日、彼女のともだち二人を自動車で迎え、会場に時間どおりに来る下見のためである。そしてぼくは劇団員に半年ぶりに再開し、実行委員3人ともあい、上演の段取りをうちあわせ、午前10までには引返して、現代っ子センターの藤野さんのアトリエで、山崎委員と道標と小春チケット販売促進看板をつくり、販売用看板は、雑貨店カフェ「ひむか村の宝箱」0985-31-1244に運びこみ、店先に設置させてもらう。他の一枚は、今夜開催される東宮花の森の実行委員会場に持参する。これが今日の仕事である。

 今日は雨だと予報された。今は止んでいる。チップを起こして散歩に出て行くことにしよう。ちょうど午前6時30分となった。

 

 


 

 

 

 




 

  

 




 

 
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シルバーウィークの日々 壊れた街を楽しむ

2009-09-29 | Weblog
 ここ5年、中心商店街が、つぎつぎと壊れていった。ほとんどが、美しくしようとして、アーケートを撤去したり、道路を拡張したり、舗装道路に変えたりして、なんとも空ろな街路に変わっていっている。橘通りに始まり、青空市場周辺、駅前商店街、大成銀天街、若草通りと、美しくするたびに、つまりシンガポール幻想化するたびに壊れていった。それでもまだシンガポール幻想にしがみつく。







 美しくする前と後を写真で並べてみた。大空市場などは、たしかに汚れて、ごみごみしている、しかし、これが味がある。あの青い看板は、いわくいいがたい下手うま的な味わい、庶民のエネルギーさへかんじられるのではないか。このえねるぎーこそ市場が伝統的にはっしていたものだ。昭和30年代の同じ場所のこの熱気、こうなると、街を美とか醜とかで判断するのは、大きなまちがいであることが理解できよう。ここにはひとびとの生きる姿があり、熱気があり、ライフスタイルがある。まさに文化があり、それがアートとなっている。

 街角とは、まさに人がおってこそ街角である。街は劇場といわれる。劇場がひとびとを活気付け、楽しませる。現在のように人の生命が耐えた商店街。それは美
とはいえない。それはおくりびとによって、整えられた懐かしきわか街の美でしかない。これはみるのも感じるのも辛い。以下の若草通りの同じ場所が、人々がいるといないとでは、これほまでに違う。街の美とはなにか、シンガポール幻想とはなにか、街は癌であえぎながらうったえているがごとしであった




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シルバーウィーク 過ごした日々 空っぽ

2009-09-24 | Weblog
 二十日からの4連休、朝6時に起きると、家内が青井岳温泉に行くよといい、もう支度は終っていた。顔は温泉で洗えばいいでしょうというので、すぐ、チップも連れて、温泉に向かった。晴天で気温は30度くらい、涼風ありで、こんな日に温泉に行くものはあまりいないはすと、予測したとおり、浴場はがらんとしていた。露天風呂も一人で、桜、樫、杉などがかぶさるようになり、これは5月の霧島山麓の旅人荘温泉自慢の露天風呂に勝るとも劣らないと、ここの快感を感じるのであった。

 ジャグジー風呂で寝ながら、原稿を書いた。といっても、パソコンで書くのでなくて、脳内であるが、ぼくの略歴として、70年以降の主な評論活動をまとめてみた。すべてこれ反抗、マイノリティの周縁論で、近く、天空ジールで講演すると約束したので、そのチラシに分かりやすいイントロとして、僕自身を説明したほうがいいだろうと、思ったのだ。何回かやり直すうちになんとか、まとまりだした。どうしてもここに集まる若者を説得したい感情があるので。ふつうはこんなことはしないのであったが。

 かなり長湯になったので、疲れがどっとでて、帰宅してそうそうに書斎の床にチップと並んで昼寝をした。起きると午後2時、すぐに街に自転車で出た。気になっていた、大成銀天街のアーケード撤去後の様子、ここからはじまる上野町の道路整備後のシーン、隣接する青空市場,それになによりも中心市街地の中心となっている橘通り3丁目界隈の休日を見てみたかった。ここは5月に「花吹雪一座」の若菜さん一行とちんどんした思い出がある。

 橘通り3丁目は、待っていれば人も歩いてくる気配なりとあったが、銀天街も上野町も青空市場も、人が来るという様子などは感じられなかった。季節感さへ無かった。まさに空っぽ、透き通ったほどの空である。ふと、エヴァ・カシィディの枯葉の歌声が思い出された。33歳、癌で無くなった彼女の歌声がこの街角になによりも似合うように思えた。ここまで、街も死んでしまえば、それなりに美しい。

 シンガポール幻想とアート幻想の織り成した宮崎市のたどり着いた果てを、死のイメージを漂わす横町を、ゆっくりと歩いてみた。

 

 
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週末、巻き込まれて、ただちに犬となる

2009-09-16 | Weblog
 

 土曜の午後になった。すぐに自転車で神宮の県総合文化公園の西通りに沿ったエコをテーマとした倉庫改造の集合店舗に出かけた。そのベジタブルカフェ・チャゴへチケットを持参したのだ。そこには玄米食がランチで、白米はない。どうも玄米はその姿、ぶちぶちとした米粒、色、匂いがどうも苦手で、おいしい、おいしいという愛好家のおすすめに、玄米を食おうかとはどうしてもなれないのだ。でもチケットをあ付けるのだから、玄米を食うことは交換儀礼だ。こうして玄米ランチを食べた。

 おそるおそる口に運んだとたん、それがうまいのだ。質のいいおこわの感じ、特有の臭みも無く、姿は粟ご飯にも似ていて気にならない。玄米は炊き方よと聞いてたが、なるほどそうかと肯定できた。それにベジタブルカフェをテーマにしただけにサラダや野菜の料理がいい。どうもカフェのランチとは、若い女性に聞くと、太りたくない、安全な有機野菜が健康志向と一致するようだ。チャゴでは、大豆グルテンを使ったチキン南蛮そっくりの料理が人気だという。女性の痩せたい気持ちに沿って量も控えめである。カフェのランチはどこも量をケチっていると思っていたのは、女性の希望にそっているに過ぎないのだ。そんなこともわかるようになってきてはいた。

 と、携帯が鳴り出した。黒木さんから、今夜、若者の集まりにでかけるので、ちらしとチケットをアルベロベロに届けてほしいということだった。彼女こそ、先日に書いたようにもう一人のぼくであった。すぐにここからアルベロベロへ走り、とどけたのであった。店主は彼女の実兄であり、70年代の新宿、赤テント、天井座敷とあの時代を語れる。アングラ演劇をともに語れるので、店先で話が弾んでいった。

 午後3時帰宅。孫の誕生日イブで、会食をするつもりであったが、かれらは来宅していないので、午後5時にスタートするニューレトロクラブでのライブに走った。ところが5時半からということで、付近を歩いてみることにした。大成銀店街という看板文字を掲げた昭和30年に設けられたアーケードも先日取り払われ、ついでに通りの店も取り去られすべて有料駐車場に変じていた。ひとの姿もなく、秋の陽射しの寂寥感につつまれて、街をこうしてしまった時代の流れにいいようもない怒りを覚えながら、通りを眺めていると、とつせんあらあと声をかけられた。なんと黒木さんであった。彼女は、今からニューレトロのライブに行くのだと言うのだった。まさに偶然の一致であった。さっさく二人で行く。

 ライブは轟音であり、彼女と話をしをして、どくんごのことを話したかったが、そんなことは不可能であった。それに雑誌サルママの編集にかかわった若者たちにも何人もあえたのだが、話をすることはできなかった。ここでもやはり孫の誕生日祝いが気になって、午後7時には出ることにした。。ライブはこれから深更までつづけられるらしかった。彼女を置き去りにして、悪いと思ったところ、連れがくるからと言われ、それよりもたんたんと平然として一人で、このライブハウスにいる姿に感銘できた。こんな自立を若者の多くがもってくれたらなと、つくづく思うのであった。群れるなと。

 外はすでに暗かった。昭和町の一番ラーメンでラーメンを食う。おまけににぎりめしも一個そえた。

 午後8時前、帰宅すると、孫と次男とが、ぼくを待っていた。これから行こうというのだ。お茶でもとしようかと提案すると、孫は「おどり寿司」と大声で言った。どうしても孫は、その寿司店で見せたいものがあると言うのだった。

 店は花が島の北バイパスの郊外大型店舗の集合したなかにあった。回転寿司で、まだ
人がかなりいた。ただし、ここのは、円形にぐるりぐるりと回るのではなく、直線で、両脇に客席、椅子席と座敷席とがある。座敷に座る。お茶が抹茶を木のカップに入れ回転テーブルの蛇口から熱湯をそそぐ。これはいい。ガリはつぼに充ちている。座敷が気分をリラックスさせる。ただ、ラーメン食ったばかりで食えそうもない。握りが40種類,炙りもの15種類、軍艦巻きと普通巻きで20種類ばかり、それにスイーツと100種類ばかりが、皿にもられて直線と回転台を流れている。ボタンを押すと、店員が飛んできて、注文を聞く。次男はつぎつぎと聞いたこともないような品をどんどん注文する。

 ときどきベルの音がする。直線の台の一番上を新幹線の模型電車が、注文した寿司をのせて運んでくるのだった。孫がみせたかったのは、この仕掛けであったのだ。プラットフォーム式回転寿司であったのだ。

 皿は100円皿と200円皿、たまに300円皿、もうだめだというくらい食いまくったのだが料金は2900円あまりでしかなかった。こんなに安くて大丈夫なのかという気持ちが食材への不安感を誘う。しかし、次男も孫も食いまくっていく。チャゴとはなんという違いであろう。食い終わって外に出ると午後9時を少し回っていた。結構楽しかった。

 クラシックのピアノ連弾とロックライブ、有機野菜の玄米食と、一皿100円のマグロ寿司や、名も知らぬ肴の寿司のやま、あまりにも対照的な食とアートに、怒濤にまきこまれるように巻き込まれ、それぞれおもしろかった。ということは、この世にどれが正しいと断言することが困難な楽しみに誘惑されるに似ていた。思想も哲学もあったものではない、これが消費社会の現実なのだろうか。どくんごの芝居のタイトルではないけど、ぼくもまた「ただちに犬」となって、食を楽しみ、アートを楽しみと、なにかを漁るような感じである。もっとも演劇のタイトルの意味はもっと哲学的意味のある抽象である。 
 
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