て
いよいよ公演当日が来た。観客席(50席)を定刻までに埋め尽くし、入り口の外まであふれ出した観客は、その各人の期待を満足させれくれるのだろうか。物語もなく葛藤もなく、意味を知る手がかりもない。この舞台に何をみるのだろうか、チラシの作・演出の河野明代表のエッセイと、脚本を読んだ段階で、不安はぬぐえなかった。よくわからないけど、おもしろいはずという期待だけを予想して、開幕をまっていただけであった。そして緊張の一時間半がおわったとき、舞台は鳴り止まぬ拍手につつまれ、涙を流す人々もあり、実行委員の三木ちゃんはあたりかまわす啜り上げる大泣きをとめどなくつづけていった。
「井筒」はこのように成功して終わった。ただ、観客の多くが、このように舞台を受容したという事実だけをまず報告しておきたい。以下ぼくがのべることは、「井筒」のぼくなりの解釈を感動の一つに付け加えさせてもらいたいという試みである。
脚本の段階と、実際の舞台(演劇)は、まったく違っていた。これは当たり前といえば当たりまであるが、演じるということを、想像できなかったのだ。物語の脚本ともテント劇のサーカス性とも違っていた。井筒という謡曲に拠ったという説明を忘れていたし、能の舞台などとは関係ない、大阪物語は、大阪に暮す三人の女のある日常の描写だと思っていたのだだ。だが、日常の動作、つまり生活臭も会話も取り除かれていたのだ。その点では謡曲に沿っている。しかし、堅苦しいものではなくて、あちこちに秀抜な滑稽さが込められてはいる。いやベースとして、この笑いが、全体をすすめている駆動力になっている。ここは、この脚本の魅力でもあるのだが・・。たとえば、以下のシーン。
女B あたしたちがこうしてスリーウエイ・ハンドシェイクしていますと、つい考えしまうのです。 こうして手を繋いだのはいつの頃だったのかと。
女A 十八のころでした。
女C いつの十八ですか?
女A はい?
女C 何を見ていますか?
女A 意味判んないですけど
女C つまり,昨日の十八ですか、それとも十年前にみた十八、まさかの二十年前の記憶を手繰り寄 せた十八。
女A なんですって!結構息荒くなってしまうんえすけど。
女Bは西シャン(西行)(打上花火)が、ヒロイン女A(たかはしみちこ)もはや中年になった今を問うわけだが、よこから初老となった井筒の持ち主の女(曼珠紗華)が横槍をいれて何年前の十八かと幻想をぶちこわしていく展開で、西行の出家した心境とあわせ、抱腹絶倒のシーンも可能となる。しかし、老いるという現実として喜劇性は、かくされてしまう。このシーンは笑うべきシーンなのか、考えるシーンなのか、定かでないが、どちらをえらぼうと観客次第であったろう。
台詞はシーンの日常性、具体性などを気にもかけず、疾走してながる。アジール(居場所、逃げ込める場所)やアントルシャ・ディース(バレーで空中で両足を打ち合わせる舞踏形)プロトコル(デジタル通信規則)などなどの言葉が現れ、流れていく。言葉は、井戸の水面の月のように砕け散り輝いている。意味など探るヒマなどないわけである。驚かされたのは、台詞の限界を超えた早さ、その明晰さ、そして台詞を虹のようにふりまきつづける彼女らの大地か彫像のように安定した土台、底から言葉があふれ出し、きらめいていくわけだ。おそらく、観客のほとんどは、女優の台詞の迫力に美を感じて、自分の感情を吸引されていったと思える。そのプロセスこど井筒の内容であったのだ。ではその内容とはなんなのか。
いよいよ公演当日が来た。観客席(50席)を定刻までに埋め尽くし、入り口の外まであふれ出した観客は、その各人の期待を満足させれくれるのだろうか。物語もなく葛藤もなく、意味を知る手がかりもない。この舞台に何をみるのだろうか、チラシの作・演出の河野明代表のエッセイと、脚本を読んだ段階で、不安はぬぐえなかった。よくわからないけど、おもしろいはずという期待だけを予想して、開幕をまっていただけであった。そして緊張の一時間半がおわったとき、舞台は鳴り止まぬ拍手につつまれ、涙を流す人々もあり、実行委員の三木ちゃんはあたりかまわす啜り上げる大泣きをとめどなくつづけていった。
「井筒」はこのように成功して終わった。ただ、観客の多くが、このように舞台を受容したという事実だけをまず報告しておきたい。以下ぼくがのべることは、「井筒」のぼくなりの解釈を感動の一つに付け加えさせてもらいたいという試みである。
脚本の段階と、実際の舞台(演劇)は、まったく違っていた。これは当たり前といえば当たりまであるが、演じるということを、想像できなかったのだ。物語の脚本ともテント劇のサーカス性とも違っていた。井筒という謡曲に拠ったという説明を忘れていたし、能の舞台などとは関係ない、大阪物語は、大阪に暮す三人の女のある日常の描写だと思っていたのだだ。だが、日常の動作、つまり生活臭も会話も取り除かれていたのだ。その点では謡曲に沿っている。しかし、堅苦しいものではなくて、あちこちに秀抜な滑稽さが込められてはいる。いやベースとして、この笑いが、全体をすすめている駆動力になっている。ここは、この脚本の魅力でもあるのだが・・。たとえば、以下のシーン。
女B あたしたちがこうしてスリーウエイ・ハンドシェイクしていますと、つい考えしまうのです。 こうして手を繋いだのはいつの頃だったのかと。
女A 十八のころでした。
女C いつの十八ですか?
女A はい?
女C 何を見ていますか?
女A 意味判んないですけど
女C つまり,昨日の十八ですか、それとも十年前にみた十八、まさかの二十年前の記憶を手繰り寄 せた十八。
女A なんですって!結構息荒くなってしまうんえすけど。
女Bは西シャン(西行)(打上花火)が、ヒロイン女A(たかはしみちこ)もはや中年になった今を問うわけだが、よこから初老となった井筒の持ち主の女(曼珠紗華)が横槍をいれて何年前の十八かと幻想をぶちこわしていく展開で、西行の出家した心境とあわせ、抱腹絶倒のシーンも可能となる。しかし、老いるという現実として喜劇性は、かくされてしまう。このシーンは笑うべきシーンなのか、考えるシーンなのか、定かでないが、どちらをえらぼうと観客次第であったろう。
台詞はシーンの日常性、具体性などを気にもかけず、疾走してながる。アジール(居場所、逃げ込める場所)やアントルシャ・ディース(バレーで空中で両足を打ち合わせる舞踏形)プロトコル(デジタル通信規則)などなどの言葉が現れ、流れていく。言葉は、井戸の水面の月のように砕け散り輝いている。意味など探るヒマなどないわけである。驚かされたのは、台詞の限界を超えた早さ、その明晰さ、そして台詞を虹のようにふりまきつづける彼女らの大地か彫像のように安定した土台、底から言葉があふれ出し、きらめいていくわけだ。おそらく、観客のほとんどは、女優の台詞の迫力に美を感じて、自分の感情を吸引されていったと思える。そのプロセスこど井筒の内容であったのだ。ではその内容とはなんなのか。
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