数日前の毎日新聞に大きく42万冊の国会図書館デジタル書籍を閲覧可能という見出しをみて、やったあと思った。だがたちまちぬか喜びでしかなかったのを知った。やはりデジタル書籍、電子書籍ともいわれるが、そうそう簡単に読むことはできないのを、あらためて痛感させられただけであった。
せっかく、デジタル化された本は、自分のパソコンやスマホ、タブレットで読めないのだ。県立図書館まで、出かけていっていわゆる閲覧させてもらうしかないのである。デジタル化された本ならデジタル情報として、インターンネットで検索し、その場で読めると思ったのだ。国会図書館は
「 明治以降に刊行された図書・雑誌のうち、インターネットで閲覧可能なデジタル化資料を公開しています。」
と、「近代デジタルライブラリー」のサイトに麗々しく宣言されている。この近代デジタルライブラリーを渉猟していけば、おおくの参考資料に出会えるし、もはや閲覧不能とおもえたアナトールフランスの評論集や、明治初期の貧民窟のかずかずの探訪記や、当時の性関係本や初期のマルクス関係の翻訳などなどと、目をむくような本にも出合えていける。だが、わすれてならないのは、この検索、読書は、自分のパソコンで時間無制限で、渉猟可能ということなのである。だから「閲覧可能なデジタル化資料」といわれてよろこんだのは、当然であった。だが、宣言でいうインターネットはインターネットでも、国会図書館のインターネットを利用してということなのだ。何十万冊のデジタル資料があるのだが、自分の書斎で、ゆうゆうとみれれるのでなくて、国会図書館のパソコンでしかみられない仕組みになっているのだ。この本は来館での閲覧のみとある。ふざけるなとは、このことであろう。むかつくとはこのことである。この仕組みを、宮崎県立図書館のパソコンまで連結したというのが、42万冊国会図書館デジタル書籍閲覧可能ということなのである。県立図書館が望んだのか国会図書館が配信を可能としたのか、どっちもどっちで利用者のことを真剣にはかんがえていないのではないかと、慨嘆する。
記事を読んだ朝、早速、県立の担当係りに電話して、いろいろ聞いてみた。思ったとおり、デジタル資料は、映像資料であると県立の担当者から教えてもらえた。原本のページが表紙から、目次、まえがき、奥付まで、各ページ一枚一枚、コピーされて映像化されたものであった。写真で撮影された用に映像となって読めるようになっている。慣れないうちは、汚れていたり、画像だから、読むときに不安定である。ページが薄汚れて、読みにくい。読みにくいページは、拡大してみたり、縮小してみたりして、ページをきれいに写してみる必要がいる。そんなことをくりかえすことは、どうも不快感となる。よほど必要にせまられるか、好奇心がなければ読み続けられるものではない。各ページの映像の明晰さへの調子やめくる技術などもいる。その前に、なにより検索がかなりややこしい。つまり、開架書架の本をぱっと選んでさっと読み始めるようなわけにはいかないのだ。聞けば、閲覧用のパソコンは2台用意されているという。ぼくはすぐにそれじゃ足りないのではと、聞くと、あっさりええそれですから、一人2時間に限定されていますというのであった。実際にこの時間はなにを基準にきめられたのだろうか。褐色に変色しているであろう明治期の本をのページ画像を、読もうとすると生の本を読むよりも時間がかかる。大蔵経で、南無妙法蓮華経を読もうとする場合などを思うと、まず検索に時間がかかろう。この漢文訳の文章を映像にしているページは、パソコンの処理能力が高いものでなければ読むにたえられる画像にならないであろう。
国会図書館でのみ読めるというデジタル本を、宮崎から国会図書館まで行って読むものがいるのだろうか。おなじように宮崎県立図書館に都城市や日南市からわざわざ出かけて、2時間の限定時間で、デジタル本を検索し、読むヒマ人などがいるとはおもえない。ぼくの住居から自転車で20分でいけるが、自動車でも信号機の多さ、駐車の手間をいれると、自転車よりも時間がかかる場合がある。そんなことをしてデジタル本を読みに行けない。つまりこうして、ぼくにとっては、これこどなんの役にも立たないデジタル本のインターネット公開であるのだ。なぜこんなばかなことが公開されるのか、改めて確認できるのは、あのイスラエルの壁に似た強固なる著作権という壁が立ちはだかっているのだ。デジタル本のインターネット公開となると、ページや編集、装丁にまで著作権が発生して、複雑怪奇な権利関係がからみあってくるという。まるで、太平洋にあるサルガッソという浮遊物の広大なゴミの中を航海していくような阻害物に取り巻かれるように思える。これをぶち破るには、書店の抜本的な改革がいる。図書館と書店の関係の国家的コーディネイトがいるでろう。そのうえで、著作権の破壊が必要なのかもしれない。
せっかく、デジタル化された本は、自分のパソコンやスマホ、タブレットで読めないのだ。県立図書館まで、出かけていっていわゆる閲覧させてもらうしかないのである。デジタル化された本ならデジタル情報として、インターンネットで検索し、その場で読めると思ったのだ。国会図書館は
「 明治以降に刊行された図書・雑誌のうち、インターネットで閲覧可能なデジタル化資料を公開しています。」
と、「近代デジタルライブラリー」のサイトに麗々しく宣言されている。この近代デジタルライブラリーを渉猟していけば、おおくの参考資料に出会えるし、もはや閲覧不能とおもえたアナトールフランスの評論集や、明治初期の貧民窟のかずかずの探訪記や、当時の性関係本や初期のマルクス関係の翻訳などなどと、目をむくような本にも出合えていける。だが、わすれてならないのは、この検索、読書は、自分のパソコンで時間無制限で、渉猟可能ということなのである。だから「閲覧可能なデジタル化資料」といわれてよろこんだのは、当然であった。だが、宣言でいうインターネットはインターネットでも、国会図書館のインターネットを利用してということなのだ。何十万冊のデジタル資料があるのだが、自分の書斎で、ゆうゆうとみれれるのでなくて、国会図書館のパソコンでしかみられない仕組みになっているのだ。この本は来館での閲覧のみとある。ふざけるなとは、このことであろう。むかつくとはこのことである。この仕組みを、宮崎県立図書館のパソコンまで連結したというのが、42万冊国会図書館デジタル書籍閲覧可能ということなのである。県立図書館が望んだのか国会図書館が配信を可能としたのか、どっちもどっちで利用者のことを真剣にはかんがえていないのではないかと、慨嘆する。
記事を読んだ朝、早速、県立の担当係りに電話して、いろいろ聞いてみた。思ったとおり、デジタル資料は、映像資料であると県立の担当者から教えてもらえた。原本のページが表紙から、目次、まえがき、奥付まで、各ページ一枚一枚、コピーされて映像化されたものであった。写真で撮影された用に映像となって読めるようになっている。慣れないうちは、汚れていたり、画像だから、読むときに不安定である。ページが薄汚れて、読みにくい。読みにくいページは、拡大してみたり、縮小してみたりして、ページをきれいに写してみる必要がいる。そんなことをくりかえすことは、どうも不快感となる。よほど必要にせまられるか、好奇心がなければ読み続けられるものではない。各ページの映像の明晰さへの調子やめくる技術などもいる。その前に、なにより検索がかなりややこしい。つまり、開架書架の本をぱっと選んでさっと読み始めるようなわけにはいかないのだ。聞けば、閲覧用のパソコンは2台用意されているという。ぼくはすぐにそれじゃ足りないのではと、聞くと、あっさりええそれですから、一人2時間に限定されていますというのであった。実際にこの時間はなにを基準にきめられたのだろうか。褐色に変色しているであろう明治期の本をのページ画像を、読もうとすると生の本を読むよりも時間がかかる。大蔵経で、南無妙法蓮華経を読もうとする場合などを思うと、まず検索に時間がかかろう。この漢文訳の文章を映像にしているページは、パソコンの処理能力が高いものでなければ読むにたえられる画像にならないであろう。
国会図書館でのみ読めるというデジタル本を、宮崎から国会図書館まで行って読むものがいるのだろうか。おなじように宮崎県立図書館に都城市や日南市からわざわざ出かけて、2時間の限定時間で、デジタル本を検索し、読むヒマ人などがいるとはおもえない。ぼくの住居から自転車で20分でいけるが、自動車でも信号機の多さ、駐車の手間をいれると、自転車よりも時間がかかる場合がある。そんなことをしてデジタル本を読みに行けない。つまりこうして、ぼくにとっては、これこどなんの役にも立たないデジタル本のインターネット公開であるのだ。なぜこんなばかなことが公開されるのか、改めて確認できるのは、あのイスラエルの壁に似た強固なる著作権という壁が立ちはだかっているのだ。デジタル本のインターネット公開となると、ページや編集、装丁にまで著作権が発生して、複雑怪奇な権利関係がからみあってくるという。まるで、太平洋にあるサルガッソという浮遊物の広大なゴミの中を航海していくような阻害物に取り巻かれるように思える。これをぶち破るには、書店の抜本的な改革がいる。図書館と書店の関係の国家的コーディネイトがいるでろう。そのうえで、著作権の破壊が必要なのかもしれない。
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