ときどき、ドキドキ。ときどき、ふとどき。

曽田修司の備忘録&日々の発見報告集

アルベルト・ジャコメッティ展

2006-07-25 11:54:32 | アーツマネジメント
今日の朝日新聞朝刊の「天声人語」に神奈川県立近代美術館葉山で開催中の「アルベルト・ジャコメッティ展」が取り上げられていた。

私は、去る7月4日に同展を見て、そのときに感じた感想を少し書きとめておこうと思っていたのだが、ほかのことに紛れてそのままになってしまっていた。

ジャコメッティの針金のように細長い立体の彫刻は、何かの折りに見たことがあるような気がする。美術関係の書籍で見ただけでなく、実物もどこかの美術館で見たことがあるような気がする。それも、何度も(しかし、いつどこで見たかはたしかではない)。

だが、単独の作品ではなくアーティストの個人展における作品群としてジャコメッティの世界を見ることは初めてだった。
同展は、「矢内原伊作とともに」という副題がつけられているが、ジャコメッティのモデルとなった哲学者の矢内原伊作のことも初めて知った。

そのときに私が抱いた感想というのは、この真新しい美術館の、典型的なホワイトキューブの空間の内部に立ってそこに展示された作品群を眺めていると、美術作品やアーティストが社会的な評価を得るということはこういうことなんだ、とあらためて思った、ということである。
あるきっかけで評価を得て、名作傑作とされるようになったものが世界各地の「近代美術館」に飾られることによって、そのアーティストは世界的な巨匠になり、巨匠の作品が世界をめぐることによって美術における今の時代の「当たり前」は作られてきた。アートの歴史が、いまのアートの「当たり前」をつくっている。

素朴すぎる感想で、そのこと自体が気恥ずかしく思えるものではあるが、近代アートの成り立ちについて、頭で理解していることが体を通して実感された経験であった。

それにしても、今頃になってそのような感想を持つとは、いったい私は今まで美術館や美術展で何を見て来たのであろうか、とも思う。

たぶん、その理由は、これまで私が美術館に展示されている美術作品に接するときに、自分自身の世界(より正確には、世界認識の構造)と直接関わりのあるものとして接するということがなかった(少なかった)からだ、ということなのだろう。

今見ているものは、自分のこれまでの人生の中で初めて見るものではあるが、自分がいま見ている「当たり前」をつくってきたもの(の気の遠くなるような集積の一部)であり、しかし、たしかにその一部を今自分は見ている、というような感覚は、これまで明確に知覚することはなかった。同じような感情は抱いていたかも知れないが、それを明確に自覚したことはなかった。

これは、言わば、「自分の身体が時間と歴史に串刺しにされる」ような感覚、ともいえるかも知れない。
そう言えば、今から思えば、私が以前書いた以下の文章も、それに近い感覚について語っていると言ってよいのだろう。

→ 茶色い戦争(中原中也)・長谷川一夫・レヴィ=ストロース (2005/04/18)

いずれにせよ、以上は、「アート」をめぐる素朴すぎる感想には違いない。だからこそ、ここに書いておく意味があるように私は思ったのである。

(注)もちろん、これまでに、美術館で美術作品を見て、感動したり衝撃を受けたり、という経験がないわけではない。そのような経験は一応人並みに持っているつもりだ。だが、うまく言い表せたかどうかわからないが、今回感じたことは、そういう個別の経験における美術作品との出会い方とは違って、アートというものの価値の生成がアートの歴史を作っており、逆に、歴史がアートの価値をつくっているのだ、という全体像、ダイナミズムを私が直感として理解した、ということなのである。



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