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曽田修司の備忘録&日々の発見報告集

北野圭介「ハリウッド100年史講義」

2007-05-24 06:39:54 | アーツマネジメント
北野圭介「ハリウッド100年史講義」を読む。

ハリウッド100年史講義―夢の工場から夢の王国へ
北野圭介
平凡社

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面白かったのは、映画を作家論(主として監督)だけで語るのではなく、つくる人、見せる人(映画産業の人たち)、見る人(観客)のそれぞれに対する3つの視点を並立させて、複層的にハリウッドの歴史の流れを構成していることである。

映画の産業としての成り立ちをこのように説得力あるかたちで説明した文章には初めてお目にかかったし、教えられるところも多かったが、何よりも、その説明自体が面白く語られているのがすばらしい。

たとえば、映画は、その前史も含めて、その最初期から今日に至るまで、一貫して「見世物性」というのが非常に強い特性として刻印されていること。それは、表現される内容についてだけではなく、表現の手段としての映画というメディア、あるいは、それが提供される場というものを非常に強く規定してきたという事実。これは、言われてみればなるほどそのとおりだが、なかなか気がつかない指摘である。

また、時代による社会状況の変化により、観客が何を求めるようになってきたのか、というあたりの観客論も、非常にわかりやすく、映画を語ることは時代を語ることだということがごく自然に納得できる語り口になっている。

経歴を見ると、著者は、現在立命館大学教授とあるが、ニューヨーク大学で映画研究をはじめた人のようである。

本書の冒頭で著者自身が記述していることだが、映画を個人の主観で語ろうとすると、百人百様にならざるを得ない。
著者は、そのことにきわめて自覚的であり、欧米の専門的映画研究者の最新の研究の成果を取り入れて、産業としての、あるいは時代を反映するメディアとしての映画についての、あたうるかぎり客観的な映画論をめざそうとしている。

それ自体が野心的な試みだと思うし、映画という「表現されたもの」について、主観的な印象批評に終始するのではなく、こういうやり方で、できうる限り最大限の客観性を獲得しながら論じることができるのだ、ということを教えてもらい、私にとっては大変参考になった本であった。

ご関心をお持ちの向きには一読を薦めたい。

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