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曽田修司の備忘録&日々の発見報告集

渡辺裕「宝塚歌劇の変容と日本近代」

2007-05-19 21:02:06 | アーツマネジメント
渡辺裕「宝塚歌劇の変容と日本近代」を読む。

宝塚歌劇の変容と日本近代
渡辺裕
新書館

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宝塚歌劇は、「歌劇」ではあるがオペラではない。

だが、私たちは、宝塚歌劇のことを普通「タカラヅカ」と認識していて、それが「歌劇」という名称を持っていることも実はほとんど意識していない。
それは、何故だろうか。

それは、私たちが、「歌劇」を西洋オペラのことだと認識しているからである。

明治44年に帝国劇場が開場し、翌年にはイタリア人ジョバンニ・ヴィットリオ・ローシー(ロンドンのヒズ・マジェスティ劇場で振付と舞台監督をしていたという)が招聘され、ヨーロッパ直輸入の歌劇を日本人の歌手舞踊手によって上演するが、興行的にはまったく成功せず、契約満了とともに帝劇歌劇部は消滅してしまう。ローシーはその後、私財を投げ打って赤坂にローヤル館という歌劇場を設けて公演を行ったが、やはりまもなく経営が破綻し、失意の内に離日(アメリカへ移住)することになったという。

これに対して、宝塚少女歌劇の生みの親である小林一三(今日の阪急東宝グループの創始者である当時の産業界の実力者)は、「旧劇」たる歌舞伎を改良して「国民劇」を生むための第一歩として「歌劇」をとらえていたという。

つまり、小林一三風の考え方では、「歌劇」=西洋オペラではなかったわけである。著者の渡辺氏は、「彼(小林)の取っていたのは旧劇に足場を置きつつ、積極的に西洋文化の長所を取り入れるという立場」であったと説明している。

ここで重要なのは、発足(1912年)当初、宝塚新温泉という娯楽施設(といっても、当時最もモダンな総合レジャー施設であり、旧来の遊興場としての温泉のイメージを一新するものではあった)のプールに蓋をかぶせて、娯楽客向けの余興として発案された宝塚少女歌劇が、翌年には大阪公演を、大正7年(1918)以降は毎年東京公演を行うようになるほどの好評を博し、興行的に成功を収めたことである。
大正13年(1924)には、4000人収容の宝塚大劇場を本拠地とすることになり、発足後わずか10年余りの間に、宝塚少女歌劇は、日本の演劇興行の中で確固たる地位を占めるほどに成長していく。エリートではなく大衆に軸足を置いた演劇改良を志向した小林の戦略は、興行面で着実な成果を収めたことになる。

だが、この後、「モンパリ」「パリゼット」など、パリから直輸入のレビューと呼ばれる新形式のショーの大成功によって、皮肉なことに、宝塚歌劇は、東京の眼あるいは西洋の眼を強く意識せざるを得なくなる。その結果、中央(東京)あるいは西洋の眼から見た特殊性を強調するかたちでマージナル(周縁的)な性格づけがなされていくようになり、小林が目指した「国民劇」からは決定的に違う志向性に乖離していった、と著者の議論は展開していく。

ここから、私流の解釈を加えていくとすれば、当時、西洋直輸入派のようなあからさまな西洋崇拝の立場は観客の大多数を占める大衆の嗜好と合わず、興行的にも成功を収められなかったのであるが、他方において、大衆消費的な嗜好を持つレビューが大きな成功を収めたことを考え合わせると、この当時から、日本社会において西洋的価値観または西洋的生活様式が大衆の間に急速な浸透を見せつつあったことをうかがい知ることができよう。

宝塚歌劇は、終始一貫して、少数の文化的エリートではなく新たな時代の多数派を形成しつつあった中間消費者階層の西洋文化受容のためのひとつの文化的装置としての役割を担ってきたのである。

ひとつの見方によれば、宝塚歌劇とは、日本対西洋、関西対東京、女対男、宝塚対歌舞伎というように、文化的にマージナルな性格が幾重にも積み重なったものを引き受ける存在としてある。
そして、宝塚歌劇が今日に至るまで大衆(観客)の支持を受けて隆盛を続けてきたのは、それが大衆消費文化のありようを体現しているという一点においてのみ相対的に「消費社会の王道」を歩いてきたというイメージがあるからである。

言い方を変えれば、宝塚歌劇を支えるファンの心性は、マージナリティにおける両義性(文化的な比較劣位の自覚と消費における自足性)をそなえており、そこにこそ宝塚独自のアンヴィバレントな魅力を見出すことができると言ってよいのではないだろうか。


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