ときどき、ドキドキ。ときどき、ふとどき。

曽田修司の備忘録&日々の発見報告集

美しいダンスとは

2007-05-28 23:44:04 | アーツマネジメント
先日(17日)、東急文化村オーチャードホールで、アラン・プラテル・バレエ団の「聖母マリアの祈り」を観た。

因みに、アラン・プラテル・バレエ団というのは、今回の公演(作品)の振付家の名前をとって、日本公演に際して便宜的に使用されている俗称であり、正式名称は、「Les Ballet C de la B」という。読みをカタカナで記すと、「レ・バレエ・セー・ド・ラ・ベー」となる。無理に訳すと、「Bから生まれたC(というバレエ団)」とでもなるのだろうか。「B」はひょっとして、バレエのBだったり、ベルギーのBだったりするのかも知れない(この推測に根拠はない)。

同バレエ団の日本公演の招聘元は日本文化財団だが、今回は2度目の来日で、以前、2000年に初来日公演を行っている。
そのときの公演タイトルは、「バッハと憂き世」。英題は「A Little Something about Bach」というものだったので、もう少し軽めのタイトルをつけた方がよかったのではないか、とそのとき思ったものだ。(苦心の訳だったのだろうけれど、「憂き世」という語感がやや時代がかっていてしかつめらしい感じがした、という意味。)

この「バッハと憂き世」という作品は、来日公演の前の年だか前々年だかに香港フェスティバルで上演されていて、私はたまたま同フェスティバルで同作品を見ていて、非常に感銘を受けた覚えがある。

というわけで、私にとって、アラン・プラテル作品は、今回の「聖母マリアの祈り」が2作品目だから、あまりわかったようなことを言えるわけでもないのだが、彼の作品の特徴を言い表そうとするなら、非秩序の秩序、不調和の調和とでも形容できるような作風だと言えるように思う。

実際、今回の作品の中では、一人の女性ダンサーが断片的な台詞を長々と脈絡なくしゃべる役割を振られていたが、その台詞の中に「絶望の中の希望」というものもあったように思う。

もう少し、同様の言葉の連想ゲームを続けるなら、不統一の統一、非清浄の清浄、というような言葉もあてはまるだろう。

どういうダンスなのかと言えば、基本的には、バレエというよりもアクロバティックな超絶技巧ダンスである(バレエ・テクニックを基本としているのだろうが、私は専門家ではないのでそう言ってよいのかどうかわからない)。

身体的には痙攣を基調とするダンスである。多国籍のダンサーたちによって舞台上で踊られるダンスは、ほとんどすべて痙攣を基調としている。
舞台上で身体が「痙攣する」ことを基本とするダンスは、たしかに通常の意味では見た目に美しいとは言えない。見た目は猥雑で、混乱をきわめているように見えるが、舞台から感じられる印象はそれとは正反対で、清澄という言葉で表すのがふさわしい。

なぜ、そのような逆説が可能になるのだろうか。

…と、終演後、このようなことを考えつつ、オーチャードホールを後にして歩き始めた途端、私の傍らを歩いていたちょっと業界の人たち風の男女3人グループのうちの年長の男性が、連れの2人に向かって「今日の舞台はひどかったね。面白くもないし、美しくもないし、新しくもない」と話しているのを小耳にはさんだ。

その言葉は、私にとっては意外な言葉ではあったが、その瞬間、一方では、その言葉が出てくる構造はわかるような気がした。私がそこで、なるほど、と思ったのは、アラン・プラテルの描く世界というのは、きわめて逆説的というしかないのだが、「面白くも美しくも新しくもない」ことを、あえて、愚直に、と言ってよいほどストレートに描くところにすばらしさがある、ということに思い至ったからである。

しかし、このような言い方は、果たして一般的な説得力を持つだろうか。

たとえば、他の言い方では、このように言うことが出来るかも知れない。
「美しい身体」、あるいは、「美しいダンス」というとき、私たちは、知らず知らずのうちに、「美しい身体」というある種固定的な概念を作り出しており、そのことによって、その基準からはずれたものを排除しようとしているのではないか。
つまり、私たちは、普段、強者の価値観に沿った価値基準からはずれた異物を排除することによって成り立つ世界のことを「美しい」と形容してきたのではないか。

アラン・プラテルの作品は、そのことに疑問を感じることから始まっている、と私は思ったのである。

ひっきりなしに痙攣するダンス、痙攣する身体は、通常の意味では、決して美しくない。しかし、そのように表象された身体が美しいということが、この舞台ではたしかに成り立っていたと私は感じたし、それは前作の「バッハと憂き世」にもつながる感覚であった。痙攣を伴う、苦痛にゆがむ身体こそが、美しく、私たちに魂の平安をもたらすものだ、という感覚がこの舞台の美意識を作っている、と私は理解した。

後日、この舞台の批評を載せた朝日新聞の記事を瞥見したところ(ひどく間抜けなことに、評者の名前をそのとき確認しなかったのだが)、その記事の見出しには、たしか、こうあった。

「生きることは傷つくこと」

そうなのである。

この簡潔な表現に出会ってしまえば、そうそう、それだよね、というしかないのだが、今回、私もそれと同じように、この作品は、理由もなくつねに痙攣し続ける、猥雑でみじめな、それでいて美しい身体、美しいダンスを見せる舞台を目指したものだったのだと感じたのである。




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