「われ攻撃す」
石川清 命
北海道札幌市出身陸軍少尉
飛行第二十六戦隊所属陸軍少年飛行兵
アンダマン諸島海上にて戦死 十八歳
昭和十九年四月十四日、石川少尉は補給物資や将兵を満載した輸送船をシンガポールから南方アンダマン島に無事揚陸させる為船団上空から「隼」で護衛する大任にあたっていた。船団は順調に航海を続けていたが、ベンガル湾ボートブレア沖三十キロ付近で、輸送船の一隻「松川丸」に対し、白く尾を引き向かってくる魚雷の雷跡三条を発見、直ちに隊長機に「われ攻撃す」と合図を送った後、魚雷に機銃掃射を加えたが三発目の魚雷に対して「間に合わず」と見た石川少尉は「隼」を急降下させ魚雷に体当たりを敢行した。轟然たる大音響と共に魚雷を破壊、「松川丸」乗船の歩兵第二百十二連帯千三百名の将兵と補給物資は難を免れアンダマンに上陸した。翌日乗船の将兵達に石川少尉の活躍が知られた。己を捨て千三百名の命を救った十八歳の若者の心情、一瞬の判断による行動は、愛する家族を美しい故郷を祖国の明るい明日を護る強い思いからか遣り切れなさと感謝の思いで皆涙したと云う。この事は船団に同乗していた旅団長より詳細に報告、遂には六月三日天皇陛下にも報告された。石川少尉は二階級特進し軍曹から少尉へ南方総軍司令官から個人感状が遺族の元に伝達された石川少尉は幼い頃から飛行機好きで、おもちゃから模型造り、ついには陸軍航空兵を志願して少年航空兵となった。『至誠・純真・元気・周到』という飛行学校の校訓を旨に、日夜厳しい訓練も常に国を家族を守るため「人事を尽くして天命を待つ」精神を日誌に記していたという。私たちはその尊い御心を忘れる事なく、子々孫々に伝えていかなければならない。
上記は年始の参拝に先の大戦の英霊を祀る神社に行ったときに鳥居の脇に墨痕鮮やかに書き示されていました。
「国のかたち」を問う一年の始まり。集団的自衛権の行使容認を軸にした安全保障関連法は戦後、追い求めてきた「平和国家」という理想を根底から掘り崩しかねない。その危うさに多くの国民が声を上げたが、数の力で押し切った党の暴挙。一番先に戦争被害者になる我々庶民は、今夏の参院選で世論を顧みぬ権力のふるまいを正し、進むべき方向を探らなければならない。「愛する家族を・美しい故郷を・祖国の明るい明日を護る強い思い」を胸に十八歳という若さで死んでいった石川少尉のみならず三百十万人もの戦争犠牲者の人々に、為政者は一体どんな姿勢で向き合うつもりなのか。猛省を促したい。