いつだったか、多分帰国して間もない頃、あるクライアントさんとセッションをしていて、その方が、「Aは苦手なんです」と言った時、ふと気になって、「嫌いですか?」と聞いてみた。
というのも、帰国して日本人のクライアントをたくさんみるようになり、多くの日本人が、「嫌い」という言葉を避けて、本当は嫌いなのだけれど、代わりに「苦手」と言っている印象を受けていたのだが、この方はなんだか違う気がしたからだ。
あえて聞き返さない事も多い。ここが微妙なところで、セラピストにとって、相手の話を聞く中で、何かを前提にするというスタンスは避けるもので、「恐らくこういう意味だろう」、という推測で話を進めない方がよい。それと同時に、いちいち正確な意味を求めて聞き返していたらクライアントが自由連想的に話せなくなる。
前置きが長くなったけれど、自分としては、直感的に何かを感じた時以外はあえて確認せずに聞いているのだが、この時は気になった。
「Aは苦手なんです」
「Aは嫌いですか?」
「うーん。そうだな。どうだろう。嫌いではないと思う。嫌いじゃないけど苦手なんです」
「なるほど、嫌いじゃないけど苦手なんですね」
「そうなんです。嫌いを苦手って言っているわけじゃないんです。よくそう言う人いますよね」
「そうそう。そうか、本当にただ苦手なんですね。どういう風に苦手ですか?」
こんな感じで話が深まっていったことは覚えているが、何の話をしていたのかはもはや思い出せない。人混みとかパーティーとかだった気がする。
今朝、外に出たら、思いのほか寒くて、しかし天気は良く、空気は澄んでいて、富士山は真っ白で、自分は冬の寒い朝がかなり苦手だけれど、嫌いではなく、むしろこの感じがすごく好きだった事を思い出し、苦手繋がりで、この古い会話を思い出したのだ。
というのも、帰国して日本人のクライアントをたくさんみるようになり、多くの日本人が、「嫌い」という言葉を避けて、本当は嫌いなのだけれど、代わりに「苦手」と言っている印象を受けていたのだが、この方はなんだか違う気がしたからだ。
あえて聞き返さない事も多い。ここが微妙なところで、セラピストにとって、相手の話を聞く中で、何かを前提にするというスタンスは避けるもので、「恐らくこういう意味だろう」、という推測で話を進めない方がよい。それと同時に、いちいち正確な意味を求めて聞き返していたらクライアントが自由連想的に話せなくなる。
前置きが長くなったけれど、自分としては、直感的に何かを感じた時以外はあえて確認せずに聞いているのだが、この時は気になった。
「Aは苦手なんです」
「Aは嫌いですか?」
「うーん。そうだな。どうだろう。嫌いではないと思う。嫌いじゃないけど苦手なんです」
「なるほど、嫌いじゃないけど苦手なんですね」
「そうなんです。嫌いを苦手って言っているわけじゃないんです。よくそう言う人いますよね」
「そうそう。そうか、本当にただ苦手なんですね。どういう風に苦手ですか?」
こんな感じで話が深まっていったことは覚えているが、何の話をしていたのかはもはや思い出せない。人混みとかパーティーとかだった気がする。
今朝、外に出たら、思いのほか寒くて、しかし天気は良く、空気は澄んでいて、富士山は真っ白で、自分は冬の寒い朝がかなり苦手だけれど、嫌いではなく、むしろこの感じがすごく好きだった事を思い出し、苦手繋がりで、この古い会話を思い出したのだ。