(結構なネタバレが伴うので、まだここ映画を見ていない方で、これから見る予定の方は、以下は映画をご覧になってからお読みください。)
けっしてはなればなれにならないこと。みんなもちばをまもること。(「スイミー」より)
小学校低学年の頃に国語の教科書で読んだ「スイミー」には心惹かれるものがあった。しかし、「今回はそれでうまくいったけれど、次にうまくいくとは限らない。いつかバレるんじゃないかな」と、子供心にその小さな魚たちの今後に不安を覚えていた事を、「万引き家族」を見ていて思い出した。
映画の中で男の子がこの話について熱心に「父親」に語りかけていたが、「スイミー」はこの「家族」の性質や、家族システム (family system) について如実に表している。むしろ、スイミーの物語にある意味この映画のすべてが集約されているように思う。
とても強い絆で結びついているように見えるこの大家族は結局のところ疑似家族に過ぎず、家族(目の黒い赤い大きな魚)に擬態しているものの、実態は張りぼてである。この巨大で強靭に見える魚の黒い目は、この男の子なのだと思う。赤い魚の中核で居続けるのは、この小さな男の子にとって、あまりに酷であったし、そんな役割をこの子が担い続けねばならなかった事自体が本当に悲しくて痛ましい。
樹木希林さん演じるおばあちゃんは全てを見抜いていて、こんなものは長続きしないと呟く。しかし死期の迫る彼女が浜辺で海遊びをする「家族」達に向ける眼差しは慈悲深く、どこか満ち足りたようにも見える。
赤くて大きな魚は、「けっしてはなればなれにならないこと。みんなもちばをまもること」が掟であったが、実態がなく、動的平衡状態で保たれているに過ぎない集団なので、ひとたびこの平衡状態が崩れると致命的となる。
男の子は、新しくできた妹が自分を真似て万引きを覚える事に対して強い葛藤を覚え、その葛藤に取り合ってくれない「父親」に対して不信感を募らせる。この不信感をこの子は今まで一生懸命見ないようにしていたが、その「否認」の心の規制もやがて破綻しはじめる。抑制していた罪悪感がやがて絶頂を迎える事になる。
この「父親」は、男の子が投げかける素朴でいて鋭い本質的な問いに答えることができない。「スイミー」の物語で、追い払われた大きな魚もかわいそうだ、という男の子の感性は鋭いが、浅はかな父親はこの問いがうまく理解できない。
(この「追い払われた」大きな魚がかわいそう、というのもこの映画の重要なテーマだと思う。
共感性とは、相手の立場に立って想像したり感じたり考えたりする能力だけれど、この父親には本当の意味での共感性が欠落している。自分の犯罪行為が他者にどのような影響を及ぼしているのか想像できない。
この「追い払われた大きな魚」は、少年の実親かもしれないし、妹の実親かもしれないし、被害にあったお店や人々かもしれない。しかしこの父親にはそんな事は関係ない。頭にあるのは、今日いかにして生き延びるかのみだ。
それにしてもこの父親もまたただの悪人では決してない。少年を救い出し、女の子も救い出した。目の前にたまたま困っている子供がいると助けるのだ。しかし、救い出して育てる事はするけれど、関りは中途半端で、基本的にニグレクトフルだし、いざという時に保身を選んでしまう。これがまた男の子を混乱させ、傷つける。少年は直感的に何か違和感を感じ続けているから、彼を「お父さん」とは呼べない。そう呼びたくても。でも自身の言動が少年を傷つけていたことにこの父親は気づけない。)
万引きという犯罪行為を繰り返す自分たちに疑問をもち、問いかける男の子に対して、「母親」は、「お店が潰れなければいいんじゃない」と無責任なことを言うが、少年が万引きを繰り返していた駄菓子屋がある日潰れてしまった。(正確には、主のお爺さんが亡くなって閉店したのだが、この子に「忌引き」の文字の意味はわからない。少年は、自分がお爺さんの店をつぶしてしまったのだと思い、彼の罪悪感は頂点に達する)。
少年の万引きをずっと前から見抜いていて、最後はお菓子まで与えてくれて、妹を巻き込まぬように優しく戒めてくれたお爺さん。その姿は父親とは非常に対照的だった。
この物語の父親に、致命的に欠落しているのは、父性だと思う。
父性とは、社会のルールや道徳、倫理観を示して教えてくれる存在だ。前作「そして父になる」でリリーフランキーさんは、一つの理想的な父親を演じていた。貧しいけれど、温かく、誠実で、正直で、家族を何よりも大切にする父親だ。一見すると、今回のリリーフランキーさん扮する父親は、前作の父親とそっくりであるが、決定的に異なるのがこの父性だと思う。
この映画のテーマはたくさんあるけれど、貧困と格差社会、幼児虐待、ネグレクトなどの自明なものとは別に、「正義だとか正しさの相対性」というものがあるように思う。
事実(fact)は一つでも、真実(truth)は決して一つではない。
彼らが共に戦っていた大きな魚はなんだろう。いろいろある。弱者にとことん冷たい格差社会、暴力、虐待、裏切り、搾取、そして法律。
警察が彼らに突きつけてくる正義は、正論であり、客観的事実であるけれど、それらは必ずしも真実ではない。だけど、その事実は厳然たる事実であり、それは彼らが意識的、無意識的にそれまで合理化し、否認して見ないように、考えないようにしてきた事実だった。その事実を意識化せざるを得なくなった時、それに向き合わざるを得なくなった時、父親を筆頭に、彼らは持ち場を守る事も、離れ離れにならない事も、できなくなった。悲しいほどにバラバラになった。
それでは彼らの共同生活は、共に過ごした日々は、無駄だったのか? 無意味だったのか。
決してそんな事はない。
彼らは力を合わせて大きな魚になる事で生き長らえていたし、そこでの互いの繋がりや親密さはそれぞれの心の中に内在化されて生き続けるのだろう。
あの小さな女の子が、その小さな手のうちの小さなビー玉の中に見た宇宙は絶大であり、そこには無限の可能性がある。