思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

弱き吾「信じること、立つこと」・無名戦士の詩

2010年05月23日 | 宗教

 有名な「ニューヨーク州立大学病院リハビリセンターの壁に書き残された詩」は、安岡正篤先生生誕百十年、 関西師友協会創立五十周年記念大会で神渡良平さんという方が紹介された話のようです。

 以前私もこの詩をかいたように思いますが、改めて他のブログで確認し、信仰ということについて考えさせられました。

 とリ合えず、その詩ですが次の内容です。

大きな事を成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに
謙虚を学ぶようにと弱さを授かった

より偉大なことができるようにと健康を求めたのに
より良きことができるようにと病弱をあたえられた

幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった

世の人の称賛を得ようとして成功を求めたのに
得意にならないようにと失敗を授かった

求めた物は一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
神の意に添わぬ物であるにかかわらず
心の中で言い表せないものは全て叶えられた
私はあらゆる人の中で
最も豊かに祝福されていたのだ

感慨深い詩です。

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この詩について、この詩を再度考えさせられる機会を与えてくれたブログの管理者は、

 絶対者、全能の神は「弱い神」「無カな神」「沈黙する神」「何もしてくれない神」であり、そしてそのような「神は貧しく 小さくされた者と共に」あって祝福をあたえている。これはキリスト教思想ではありますが、それを超えた普遍性をそこには見出すことができるのではないでしょうか。

とても神は弱いのか、神は無力なのか、また神は沈黙しているのか、鋭いコメントです。

 このブログの題名がまたいい。「神のケノーシス」。

 「ケノーシス」とは何ぞや。イタリアの哲学者ジャンニ・ヴァッティモがこの「ケノーシス」に言及していることを知りました。

 2002年3月26日、同志社女子学で開催された日本基督教学会近畿支部会で発表した原稿をサイト検索で発見し、その中で、

 彼(ヴァッティモ)は「ケノーシス」の概念に着目し、それが「弱さ」のモデルとしてふさわしいことを力説する。彼は、ケノーシスという「身を下げること abbassamento」ないし「隔たり」がキリスト教思想の成立の第一の起源に存在することを、文字通り根拠の不在とその承認という弱さとして解釈するのである。ヴァッティモにとって、神が十全に現前しなかったということ、この点こそがキリスト教思想の核心なのである。

と解説されていました。

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 キリスト教には時々「弱さ」という言葉が出てきます。これを日本語的解釈で理解すると少々異なることがあります。

 今日は、この言葉も含めて浅野順一牧の著作集から「信ずること、立つこと」についての説教を紹介し、キリスト教の用語の使用をみてみたいと思います。

 信ずること、立つこと

 今朝はさきほど司会者の読まれたイザヤ書第7章1ー11節についてお話ししたいと思います。このところはイザヤの生涯で最も有名な箇所でありまして、多くの方々はすでにご存知でありますが、話しの筋は聖書を読めばだいたいわかります。ただひとこと申しますと、イザヤの国であるユダはごく小さい国でイスラエルの南の三分の一から半分ほどの大きさ。ちょうど、イザヤの時代にパレスチナ地方をたいへん脅かしていたアッシリヤの国内が少しくゴタゴタしていたために、とても南の方に手を延ばすということが困難であった。そういう時にユダから申しまして北の方のダマスコ、ここではスリヤとなっていますが、北のイスラエル、サマリヤ、そういう国々が連合し、そのほかの国も一緒になってアッシリヤに低抗しようと計画を企てました。
 
 すると、南のユダはアッシリヤの力が恐いものですから、後のたたりを恐れてなかなかその同盟に加わらない。そこで北の二つの国が南のユダの王様のウジヤを圧迫し、脅迫してエルサレムを囲んだ。
 
 このような小さい国の非常に危険な時に、イザヤは三節以下、「その時、主はイザヤに言われた、『今、あなたとあなたの子、シャル・ヤシュブ(これは「残る者帰らん」という意味)と共に出て行って、布さらしの野へ行く大路に沿う上の池の水道の端でアハズ(その時のユダの王)に会い、彼に言いなさい。《気をっけて、静かにし、恐れてはならない……》』」。そこでイザヤは自分の子、シャル・ヤシュブを連れて池の端に来て王様に、会ったわけです。主にいわれたとおりアハズ王に警告した。

 少し言葉の意味になりますが、「気をつけて」という語は「守る」という動詞からきたものでありまして「自分を守る」ということで「気をつける」、そういう意味になる。

 「静かにして」はこれでよいでしょう。「恐れてはならない」、これもそれでよい。次に「レヂンとスリヤおよびレマリヤの子が激しく怒っても、これら二つの燃え残りのくすぶっている切り株のゆえに心を弱くしてはならない」。

 細かいことを申し上げますが、原文からは「恐れてはならない」のすぐ次に「心を弱くしてはならない」がくるわげです。その後に「レヂンとスリヤおよびレマリヤの子が激しく怒っても…」とい言葉が続くわげでありますが、もう一度、繰り返しますと「気をっげて」「静かにし」「恐れてはならない」「心を弱くしてはならない」、この四つの言葉で警告されているわげ
です。

 「心を弱くする」、これでいいのですげれども「弱い」というのは「薄い」という意味があり、それから「デリケートだ」という意味もある。それから「臆病」という意味。その中で「薄い」という意味をとって「薄くしてはならない」。人間、薄っぺらではだめだ、人間が薄っぺらだと、ついつい周囲の勢いに煽られてしまって右に左に動揺しなげればならない。少しくこじつけかも知れませんが、語の意味から言えばそういう意味にもなってくるだろうと思う。

 自分を守りなさい、静かにしていなさい、びくびくしてはいげない、そのためには人間、薄っぺらではだめだ、厚みがなくてはならぬ、そういうふうに解釈できるかと思います。これが一つ。

 もう一つは、九節、「『サマリヤのかしらはレマリヤの子である。もしあなたがたが信じないならぼ、立つことはできない』」。「信じないならぱ立つ…」「信ずる、立つ」これは元は同じ語であり、「アーメソ」からきている。
 
 そして「アーメソ」は「確かだ」「ほんとうだ」「信用ができます」ということです。いつも申しますが、私ども、共に祈る祈りの後で「アーメソ」というのは、祈った人の言葉にし同調する意味でしょう。
 
 また私どもが自分で祈って「アーメソ」というのは「私のお祈りしたことに嘘はありません、本心からの言葉です」というわけで、嘘を祈ったたらば「アーメソ」とはいえないわげです。
 
 そこで「信じないならば立つことはできない」とは、そのアーメソからきていまして、信ずるというのは強いていえば「確かにする」、立つというのは「確かにされる」、そういう能動と受動の形であります。アーメソといわなければアーメソとはいわれないというふうにいってもいいでしょう。
 
 さらに言い替えますと、私どもが立っているということは、固い言葉でいいますと、われわれの存在。立っていることは信じているということ。存在は信仰による。つまり存在の基礎は信仰だというふうにいえると思うのです。
(浅野順一著作集10『説教Ⅲ』P33~P35から)

 弱さを神権に知ると、そこには立つべき信仰が見えてくる。この論理の過程を思考すると私の今立っている場所がわかります。

 強きものにはあまり参考にならない話ですが、みるものをみるためには、弱き吾を内省する必要があるように思います。

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