今朝は、やや気温が低い状態で天空の雲も秋空の筋雲のようです。
昨夜は懐疑主義について書きました。そういえばの話になってしまうのが歳のためなのですが、「ハーバード白熱教室」で、サンデル教授が政治哲学の講義をするにあたり、第1回目「殺人に正義はあるか」Lecture1「 犠牲になる命を選べるか」の最後に「講義の目的」の中で政治哲学と懐疑主義との関係について、「なぜ哲学をするのか」を含め次のように語っていたのを思い出しましたので紹介したいと思います。
日本語版から起こしたものです。
サンデル教授
政治哲学は、君たちを良い市民にするよりも悪い市民にする可能性を占めている。少なくともよい市民になる過程において、いったん悪い市民になる可能性がある。
なぜかというと、哲学というものは人を社会から距離を置かせ、衰弱させるような活動だからだ。ソクラテスの時代でもそうだった。「ゴルキアス」の対話の中でソクラテスの友人の一人であるカリクレスは、彼に哲学をしないように説得する。
カリクレスは、ソクラテスにこう言う、
「人性のしかるべき時期に、節度を以て哲学を学ぶならば、哲学はおもちゃだ。しかし節度を越えて哲学を追求するならば破滅する。私の助言を聞きなさい。」
カルキレスはこう続ける。
「議論を捨てよ、行動的な人性の成果を学べ、気の利いた屁理屈に時間を費やしている人ではなく、善良な生活と評判とほかの多くの恵みを手本とせよ。」
要するにカリクレスは、ソクラテスに、
「哲学なんかやめて、現実を見ろ。ビジネススクールに行け。」(笑い)
と、言っているわけだ。カリクレスのいうことももっともだ。哲学は私たちを常識や約束事、何となくそうだと信じていることに疑いを抱かせる学問だ。これは個人的にも政治的にもリスクである。
そしてこれらのリスクに直面した時、よくつかわれる言い訳、それが「懐疑主義」だ。例を挙げると私たちはいろいろなケースや、原理について議論したけれど、何も解決しなかった。
アリストテレスやロック、カントでさえ長年かけていても解決しないのだから、この講堂に集まった私たちが、一学期の講義で解決するわけがない。
要するに各自が自分なりの原理をもってばいいのであって、これ以上の議論は必要ではない。論じても無駄である。
これが懐疑主義のいいわけだ。これに対しては私は次のように応えたい。
確かにこれらの問題は長年にわたり議論されてきた。しかしそれが繰り返され、議論され続けてきたという、まさにその事実が、この問題の解決がたとえ不可能であっても議論を続けることは避けられないことだということを示唆している。
なぜ避けられないかというと、私たちは毎日、これらの疑問に答えを出しながら生きているからだ。だから懐疑主義に飲み込まれ、あきらめてしまい道徳に関する実行を止めてしまっては解決することにはならない。
カントはこの懐疑主義に絡む問題を次のように表現している。
懐疑主義は、人間の理性の休息所である。そこは独善的な彷徨いを熟慮できるところだ。しかし、永久にとどまる場所ではない。単に懐疑主義に同意しても理性の不安を克服することは、決してできない。
私は対話や議論を通じて、ある種のリスクと誘惑、その危険と可能性を示そうと思う。 この講義の目的は、理性の不安を目覚めさせ、それがどこへに導いていくのかということを述べて締めくくりの言葉としたい。
と、サンデル教授は講義を締めくくっている。
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この白熱教室が始まったころは、ほとんどブログに話題にされることはありませんでしたが、今ではテキストがベストセラーになるほど読まれ、かなり専門の方がブログに書く講義をまとめられています。
英語が得意な人は、日本語放送から習得するのではなく直接英語から理解し書かれているようです。
以前信州大学の公開講座に出かけ、そこで出会った人の当番組に対する懐疑的な意見を書きました。思想があって懐疑的ではなく、哲学を学んできたという自負心が見受けられました。
「哲学する」といういう意味からすると、謙虚な姿勢からの学び方、そこから独自な思想を持つことだと思います。
サンデル教授の「単に懐疑主義に同意しても理性の不安を克服することは、決してできない。」という言葉、実にそう思います。
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