山本七平さんの『ある異常体験者の偏見』(文春文庫)に「不確定要素」という言葉が書かれている。
昭和の大戦経験からのある意味情動の姿に見えます。挙国一致、八紘一宇、皇軍の進軍と歴史を刻んだ時代、そこには「民衆の燃えたぎるエネルギー」という不確定要素も何らかの方程式で確定要素に直す。「精神力」も「武器」というわけのわからない方程式により確定要素として盲目的に突き進んでいた。
パワハラ問題が話題になりますが、精神力で戦うこと、相手を倒せという不確定要素が前面に押し出されると、もう一切の分析も計算も討論も不可能になり、無防備な相手を押し倒す。
当時マッカーサーは「天皇は十二個師団に相当する」と言ったそうだ。彼は天皇という不確定要素を十二個師団という確定要素に換算しただけと、。山本さんはいいます。
確定要素とは確かに科学的にも物理的にも形として現れますが、不確定要素は形として具体的にそこに現れるものではありません。したがって不確定要素は、「ある」といえばあり、「ない」といえばないわけです。
神国日本であるという虚像と民衆の燃えたぎるエネルギーという不確定要素が兵力という確定要素に化けてしまう。疑う余地がないほどに勝敗はわかっていても一抹の不安を払拭してしまう。
この情動は、何を価値あるものと選択したのでしょう。理性を持ち出すまでもなく当たり前のこととして時を刻む、気がつけばその愚かさに打ちのめされ、そういう教化があったから、と語ることになります。
人間存在と問い、その本質を問いたくなります。そして賢い自分でありたいと希求するわけです。
漢字学者の白川静先生と哲学者の梅原猛先生の対談集『呪(じゅ)の思想』(平凡社)の中で白川先生が「存在」という漢字の成り立ちについて説明される個所があり、
「存在」というのは、神聖化された土地と人、という意味。単にある、というのではなくてね。「祝福されたるもの」、「清められたるもの」というような意味です。
と語っています。意味するところはその本質は「祝福され、清められ」のたる「もの」ある、ということのようです。
「在(あ)る」ことは「有(あ)る」である、ということでしょうか。日本語では「そんざい」で、現代中国語では「シェンツァイ」と発音したと記憶しています。
対談の中では梅原さんが「西洋哲学で一番よく読んだのがマルティン・ハイデッガーの『存在と時間』で、「存在」にそういう意味があるとしたら、大変面白いです。」と応えていましたが、「存在」についてはしばしば言及したくなる哲学の思索課題です。
祭事から成立した漢字ようですが、人間存在と問うとき宗教的実存の「祝福」「清」を考えてしまいます。
今の世の中、民衆の力とは票数という確定要素で決まります。「絶対阻止という民衆の声」という不確定要素は一部では確定要素として顕現しますが、それは全体の確定要素にはならず、背景の一部として不確定要素に還元してしまいます。
「ある」ようでいて「ない」もの。
人は常にまどろ(微睡)む、有りて在り、成りて在るものなのでしょうか。