思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

気がつけばそこにある存在として

2018年09月15日 | 哲学

 無から有は出ませんが、現れているものは既に有ったものとして存在します。

 私はいつの間にか「われ思う」を感覚し「ゆえにわれ思う」などという言葉を理解できるようになります。

 理解以前の理解が記憶され引き継がれ連続した記憶が思考する私を作ります。今以前の私も今の私も同一人物だと身体の内で感覚します。そういう意味で私はいつの間にか私でした。

 Eテレで放送された「モーガン・フリーマン~時空を超えて~」で放送された「『私』は何者なのか。」という番組について前回書きましたが、より具体的な内容について話を進めたいと思います。

 番組の最初に登場するのはカルフォルニア大学の児童心理学者アンソン・ボブニック、彼女は「人間が初めて自分を認識するのはいつなのか?」という問題について研究を続けています。

 私達は一生をかけて自分は何者かを探求していきます。でも最も重要な部分は人生のかなり初期の段階で学びます」と彼女は言います。1分前の自分と現在の自分が同じ人間であることを大人は当たり前のように受け入れていますが、子供の場合は必ずしもそうではないことを彼女は発見したのです。

 子供は自分が自分であることを理解するのに多くの時間をついいやします。子供が毎日遊んだり冒険したり何かの真似をしたりすることは自我の形成には欠かせない行為で、ボブニックは、自分を一人の人間としてとらえる道すじを探っているのです。

 およそ生後六か月から子供は「鏡像段階」という時期にさしかかります。鏡に映った自分の姿を自分であると認識できるようになるのです。個人差はありますが、およそ3・4歳くらいになると鏡に映った姿と自分自身の体の感覚が一致していることを理解できるようになると彼女は発見しました。

 いつの間にか作られた私は、作るものへと変位し、また作られたものへと変位し連続体の現れとして空間と時間に有ります。過去の経験は話し、未来を語ることのできる連続体である私は、ある意味歴史的身体をもつ現われです。歴史的私は、どこまでも作られたものから作るものへと変位し細胞の朽ちるまで続きます。心の意を作り、思いの意を作り過去を未来を認識します。心の意は過去をふり返り、心の思いは未来の私を作り出します。

 意識は無意識を作り、無意識のうちに日常を歩みます。身体の動作を含め全ての行為が意識によってもたらされるものであったならば百取り虫のような私は一歩も動かないでしょう。動けないのはなく、動かない。意識から無意識へという経過や、意識起点が次々と視座を移行されるから自らの認識ある行為が成立するのでしょう。もしも複数の意識起点が同時に成立するとなると離人の複合体になり「私」はどこにあるのかをも認識することのない病的な状態になってしまいます。

 この意識と無意識の関係や意識の視座の移行はある意味、時間・空間を生みだすのかもしれません。

 常に意識は開かれています。意識清明の状態で認識し認容し敢えてする行為は、不作為は自由意思決定に基づくもので、結果については責任を負うことは自明の事実で、客観的相当性、社会的相当性においても是認されるものならば、異議を唱えるを唱える他人はないでしょう。


西田幾多郎先生の著作を読んでいると、

「歴史の進行は何処までも不可逆的である。作られたものが作るものを作るという歴史的世界は、物質の世界から生物の世界へ、生物の世界から人間の世界へ発展するのである。現実は何処までも決定されたものでありながら、現実は現実を越えて現実から現実へ行く。そこに歴史の動きがある、弁証法的一般者の自己限定の方向があるのである。一が多、多が一ということは、上に云った如く、一と多とが(形相と質料とが)一つのものの程度的差だというのではない。絶対弁証的自己同一として、一が多、多が一なのである。そこに矛盾的同一がなければならない。矛盾的自己同一ということは、作られたものが作るものを作るということである。そこにいつも絶対的方向がなければならない(歴史的自然の方向がなければならない)。」(西田幾多郎全集哲学論文集第二、三種の生成発展の問題から)

という言葉に出会います。

 人間は歴史的身体をもつ歴史的自然の方向に有る実存のように思えます。

 最近では個々のアイデンティティーから沖縄の知事選で話題になる沖縄のアイデンティティーと、「アイデンティティー」という言葉が社会集団、共同体、至っては国家まで拡張されるような使い方がなされています。

 このような言葉使用を耳にすると哲学者田辺元が戦前に書いた『種の論理』の「種」(民族)と同種の思考に思えます。『種の論理』は、個(個人)と普遍(国家)とを媒介する種(民族)の意義を重視するもので「社会存在の論理」について言及するもので、戦後反省するところとなりました。

 人間は石ころやナイフのようにその場に置かれて変位しないものではなく、自分自身として変わらぬ存在であると意識しながら、新しき時の刻みに常に自分の在り方を模索、選択し可能性に向かって投企する存在(実存)です。成すことも成さないことも自由です。

 そのような個々が共同体組織員として総合的な組織体制に組み込まれ、当然個々の自由は制約を受け、共同意識の一員とし一致化のための意識修整がなされていきます。そして時が過ぎ、ことが終わり、その時代は、ふり返れば悪夢のような時代であったと語るようになるのです。

 過ぎ去れば反省と悔悟の感情が湧き、懺悔の哲学を語ることとなるわけです。

 人類進化における共同体行動は生きる為の共同意思を形成しどこまでも作られ、作るものへと個々の意識は変位します。意識も行動形式も姿も同化して行きます。

 他者も同様な思いをもつ存在と他者のこころを推し量るのです。他の動物にはない忖度とでもいった感情の現れでしょうか。

 作られてある現実存在は、その存在事実に本質を見出そうと思考しなければいられない衝動をもっていますします。

 生きる意味、私は何者なのか、何故そのようになるのか、そのような問いを発する過程を持つ、時を刻む存在として、たゞあるのではないかと思ってしまいます。