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関が原の戦いの武将。大谷は忠義に戦い、福島は出世を狙い、吉川はお家安泰を願った。

2011-10-13 13:06:42 | Weblog
テレビで、関が原の合戦に参加した武将の生き方を見た。秀吉の部下だった大谷吉継は福井県の敦賀を居城にしていた。病気だったが秀吉への忠誠心が強く、石田三成の誘いに応じて全国の武将に豊臣側について徳川家康を倒すようにという書状を送り、毛利を総大将にして西軍を集めた。
大谷隊は関が原で小早川が寝返るとおもい小早川隊の横に陣取った。激しく戦っているうちに小早川隊が寝返って攻撃してきた。前線の部隊も寝返って西軍は総崩れになった。大谷は切腹した。
福島正則は秀吉の部下だったが、徳川家康が実力者なので秀吉の部下だった同僚の前で、徳川につくと一番に宣言し徳川につく流れを作った。出世を目指していて、評価される一番槍を得意としていた。関が原でも最先頭にいたが一番槍は他の人にとられてしまった。西軍に押され気味になると最前線に出て部下に退くなと命令した。関が原の手柄で出世したが、寝返る人物だとも思われて晩年は減俸された。
吉川広家は毛利家の重臣だったが、天下をめざすなという家訓を守った。関が原では毛利が西軍の総大将だったが、家康が勝つと思い、密使を送って戦後毛利家をつぶさないように願った。戦場から離れて陣をしき、毛利の軍が戦場に向かおうとするのを押し留めた。戦後収入の石高や領地は3分の一に減らされたが毛利は取り潰されなかった。
関が原の合戦で西軍が勝っていたら貿易の盛んな国になっていただろうが、徳川幕府は鎖国政策をしたので孤立国家になったという。歴史は戦いで作られるようだ。


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