Sightsong

自縄自縛日記

エリック・ドルフィーの映像『Last Date』

2014-11-24 10:15:02 | アヴァンギャルド・ジャズ

エリック・ドルフィーは、1964年6月、オランダにおいて傑作『Last Date』を録音する。そして同月、パリ、ベルリンへと移動し、糖尿病が悪化して亡くなる。このDVD(監督:Hans Hylkema、1991年)は、そのころのドルフィーを追ったドキュメンタリーである。

さまざまな関係者たちの証言がある。『Last Date』の録音は、オランダの若い3人(ミシャ・メンゲルベルグは29歳、ハン・ベニンクは22歳!)には大変なハードルであり、教育の場でもあったようだ。

ハンは、コルトレーンとドルフィーとが共演したライヴを観たときの印象をこう語る。「トレーンはソロに入るときにlazyだったけれど、ドルフィーは鷹が襲うようにマイクに近づきバスクラを急に吹き始めた。そんなジャズマンははじめてだった」と。また、「ジョニー・グリフィンとも共演したけど、ドルフィーは格が違った」とも。

やはり多くの者に強い印象を残したのはバスクラだったようで、アルトサックス奏者のTinus Bruinが「まったく理解できず児戯にしか聞こえなかった」と告白する一方で、ドルフィー研究家のThierry Bruneauは、採録した楽譜を示しながら、何オクターブもジャンプする独特の技術を示す。ファイヴ・スポットで共演したリチャード・デイヴィスは、「かれのバスクラには、たくさんのエネルギーとフィーリングがあった」と思い出してもいる。そして、ジャキ・バイアードは、「魔術」と。

少年時代のドルフィーは練習魔だった。おばさんや先生の、「一日中練習してたんだよ」という証言もある。ドルフィーはそのまま、音楽ばかりを考える大人になった。それにも関わらず、黒人のジャズ・ミュージシャンというだけで、死の間際も、どうせドラッグだろうとたかをくくられていたという。

ヨーロッパでのチャールズ・ミンガスとのツアーを経て(1964年4月12日・ストックホルム、4月13日・オスロでの映像がある)、ドルフィーは、そのままヨーロッパに残ると告げる。バイアードの証言によると、「そりゃあミンガスは怒ったよ(mad)」と。ミンガス「どのくらいヨーロッパにいるつもりなんだ?」、ドルフィー「長くないよ」、ミンガス「長くないって?」、ドルフィー「1年もないよ」といったやり取りの映像も収録されているのは面白い。

そのころには、「いとこ」だというJoyce Mordeaiという女性と結婚する予定になっていた。彼女はダンスをやっていて、その活動のため、パリに行くことにしていて、だからこそドルフィーも同行した。諍いもあって幸せとばかりは言えなかったようだが。そのときドルフィーは体調を崩していて、彼女によると、「眼がどんよりしていた」と。

ベルリンでの日々。ライヴハウスの世話人がホテルに呼びにいったところ、本当にひどい様子で、アイスクリームを大量に食べていた。最後のステージでは、少し音を出したもののそのまま楽器を取り落とす。そして入院し、亡くなる。ここにも収録されているリハーサル映像も、ミンガスとのライヴも、実に余裕があってエネルギッシュであり、とても、すぐに亡くなるようには見えない。糖尿病とはそのようなものだったのだろうか。

なお、DVDには、映画完成当時(1991年)の「ドルフィー抜き『Last Date』」のライヴが収録されている(ドルフィー役はPiet Noordijkというサックス奏者)。20年以上経った今からみれば、当然だが、ハンもミシャも若くて嬉しくなってしまう。


ICPオーケストラ ミシャ・メンゲルベルグ、トリスタン・ホンジンガーら(2006年) Leica M3、Elmarit 90mmF2.8、Tri-X(+2)

●参照
エリック・ドルフィー『At the Five Spot』の第2集
ハン・ベニンク@ディスクユニオン Jazz Tokyo
ハン・ベニンク『Hazentijd』(ミシャ・メンゲルベルグ)
ハン・ベニンク キヤノン50mm/f1.8
レオ・キュイパーズ『Heavy Days Are Here Again』(ハン・ベニンク)
ウェス・モンゴメリーの1965年の映像(ハン・ベニンク)
ペーター・ブロッツマンの映像『Soldier of the Road』(ハン・ベニンク)
ペーター・コヴァルトのソロ、デュオ(ハン・ベニンク)
イレーネ・シュヴァイツァーの映像(ハン・ベニンク)
横井一江『アヴァンギャルド・ジャズ ヨーロッパ・フリーの軌跡』


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