どこかで森永卓郎氏が薦めていて気になっていた、ヴェルナー・ゾンバルト『恋愛と贅沢と資本主義』(論創社、原著1912年)。大阪・梅田地下の「萬字屋書店」で見つけて入手した。
日本では戦前、マルクスと並ぶほどの人気があったというゾンバルトだが、論理で体系的に固めるセンスではなく、具体的な逸話の数々によって体系を形作るような方法は、なるほど、マルクス的ではない。とは言え、あくまで数字的な論証にこだわっているのは面白い。
ここで提示しようとしている世界は、(恋愛というより)性愛と贅沢、性愛と資本主義、贅沢と資本主義。タイトル通りだ。舞台は西ヨーロッパ中世、フランス革命前夜までである。
イギリスのスチュアート朝下では、千人を超える新貴族が創出された。それ以上に、本来の貴族ではないが貴族社会の一員である紳氏社会(ジェントリー)、「サー」が付く階層が増殖した。オカネで手に入れることができる身分であった。そういった貴族社会は、憑りつかれたように贅沢を拡大再生産し、ごく一部の人間のみが享受する贅沢は産業社会を牽引した。
面白いのは、贅沢はおのれの身上をつぶしても構わないほどの魅力を持っていたものであり、<成り上がり者>に負けまいとつとめたため、パンも燃料も買えない没落貴族が続出したとの説明を延々としていることだ。この贅沢たるや物凄いもので、400人の召使を抱えた屋敷もあったし、妾への愛がルイ14世をヴェルサイユ宮殿の建造に駆り立てた。オカネの心配をするのは軽蔑すべきことであり、贅沢は個人の家や持ち物へとミニマムな単位と化した。まるで死ぬことがわかっているのに砂浜へと突き進む鯨の群れのようだ。
そして、贅沢があったからこそ、贅沢品を製造する産業、贅沢を提供するサービス、贅沢品に必要な物資を遠距離から運ぶ貿易が発達した。農業の発展も、量ベースの話ではなく、違いや繊細さが駆動することとなった。オカネを使わないと経済がまわらず、皆にオカネが渡らないのだという、<資本主義>なる奇妙なシステムのはじまりであり、これは今でも変わらない。<新自由主義>も、<資本>という装置がオカネを吸い上げ、トリクルダウンどころかその逆流を形作っているのであるから。
この、あまりにも非対称な政治経済は、当然ながら、植民地構造を生み出した。
「奴隷がいる国すべての奴隷総数は、1830年代には682万2759人という数字になった。パリやロンドンのかわいい娘たちが、きまぐれを満足させるためにこのように巨大な黒人の軍団をかかえていたというのは、魅力がないとはいえない考えである。」
贅沢の背景には性愛があった。流行や生活様式を牽引するのは娼婦であり、上流社会の女性は娼婦を模倣した。愛があるところには富もあった。
「フランスでは、愛の生活がしまいには変態性にまで繊細化し、生活はすべて愛のためにだけというありさまが18世紀の本質となった。」
「18世紀の終りに、宮廷に仕える20人の男のうち、少なくとも15人は夫人とではなく、妾と一緒に暮らしているということが伝えられているが、この割合はおそらく真実にきわめて近いものであろう。しかし、たんに宮仕えする騎士が妾をかかえていたばかりでなく、やがて新興成金たちの間にあっても、ある程度貞淑な女にちょっかいをかけることは、よい趣味であるとされるようになった。女をかかえるために必要とされる経費は、相当の財産家の予算内でも最大の額を占めたと、この問題に関する最良の識者はくわしい調査にもとづいた報告を残している。」
そういえば、カウントダウン体制に入った首相が、どこかでオカネがないなら結婚するな、オカネがないと尊敬の対象にならないからなあ、と発言したそうである。今さら言うまでもないが、やはり、シモジモを見下す貴族であった。
●参照
○デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』
○『情況』の新自由主義特集(2008年1/2月号)
○『情況』のハーヴェイ特集(2008年7月号)
○コーヒー(1) 『季刊at』11号 コーヒー産業の現在
○コーヒー(2) 『コーヒーが廻り世界史が廻る』
○コーヒー(3) 『珈琲相場師』
○コーヒー(4) 『おいしいコーヒーの真実』
この邦訳、バブル期の1987年に出されたことも象徴的です。当時読んだ人は、また違った感想を持ったのだろうなと思います。
資本主義なんて・・・。