風邪をこじらせて家にこもっていた(風邪の家族内循環)ので、あれこれ本を読んだり録画した映画を観たり。図書館で借りてきた山際淳司『ルーキー もう一つの清原和博物語』(毎日新聞社、1987年)は午前中あっという間に読んでしまった。
なぜ「もう一つ」なのかというと、清原を一人称とした語りは行わず、清原の周囲にいたり、すれ違ったりした人たちから見た清原像、そしてその人の人生に残した影響を描いているからだ。これが書かれたのは、清原が1年目のシーズンを終えた後である。
昨年かぎりで清原が引退したいま、その後の姿を予感しているような山際の目利きには驚かされる。清原は、シーズン最終打席、ホームランを狙ってもいいようなゲームの状況にあって(もう1本打っていれば、高卒ルーキーのホームラン数新記録だった)、巧く合わせてライト前に運ぶ。
「それだけの巧さを、清原はルーキーの年から持っていたのだと、いわれるようになるのだろうか。それとも、往年のホームランバッターのようにとてつもない空振りを覚悟して強引にバットを振り抜こうとはしなかったと、ややかげりを帯びたトーンで語られるようになるのだろうか。」
清原を語る人たちの中で、私がもっとも気になるのは、高校三年生時の夏の甲子園決勝で対決した宇部商(山口県)のエース、田上昌徳だ。田上は本大会で調子を崩し、決勝ではついに1球も投げさせてもらえなかった。試合後、テレビのインタビューで「投げたかった」と言いつつ顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた姿が忘れられない。代わりに先発した控えの古谷友宏は、「あのPL」相手にあそこまで投げたということで賞賛の的になった。また、1大会通算ホームラン数では清原に抜かれたが、打点記録を作った藤井進についても同様だった。
この本によれば、田上は、レフトを守りながらPLに勝ってほしいと思ったのだという。
「このまま宇部商が勝っちゃったら自分はどうなるのか。みじめですよ。せっかく予選を勝ち抜いてきてここまでやってきたのに・・・・・・。そういう感情ですね。あのときはそんなこといえなかった。一年たった今だからいえる。同時に、負けたくないという気持ちもある。矛盾しているでしょう。勝ちたい、だけど勝ってほしくない・・・・・・」
田上は新日鉄光に在籍しながら、数年後のプロ入りを希望していたが、結果的にそれは叶わなかった。藤井も古谷も、(宇部商のレギュラーをつとめた私のにわか親戚も)プロ入りはしなかった。若くして亡くなった山際淳司だが、もし健在なら、その後の宇部商の面々の状況、清原の様子を見て、何かを書いただろうか。
いま、あの地元の英雄たちは。
●田上昌徳 新日鉄光、現在は桜ヶ丘高校(山口県)コーチ
●古谷友宏 新日鉄光、その後、協和発酵コーチ、野球部の廃部後は?
●藤井進 青山学院大学、現在は東光食糧勤務(>> リンク)
この次の宇部商の英雄といえば宮内洋だが、住友金属を経て、確かプロ入りに(社会人だということで)契約金が邪魔になるのならと退社までして、横浜ベイスターズに入団した。打つのはピカイチだったが、守備と走塁の評価が低かった。そして、入団早々、監督が権藤博に代わった影響もあるのかないのか、ほとんど一軍で使われず、4年間の通算成績は16試合出場、ヒット1本だった。現在は球団職員だそうだ。
※敬称略