詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋千尋『いろいろいる』

2014-04-26 10:03:05 | 詩集
高橋千尋『いろいろいる』(栗売社、2024年04月10日発行)

 高橋千尋『いろいろいる』は絵本というべきなのか。絵とことばが一体になっている。絵の引用はできないので、ことばだけになってしまうが……。
 「グリーンピースハイ」はグリーンピースの莢がはじけてなかから丸い豆が六個のぞいている。白黒の絵なので莢は灰色、豆は白で描かれている。唇と歯という具合に見える。莢の左側が広がっていて、唇で言うならちょっとそこから甘い息でも漏れてきそうな感じ。いや、唇の左端がちょっとめくれていて、いやらしい含み笑いがはじまる瞬間かな?
 で、ことばの方なんだけれど。

グリーンピースをむくと指が喜ぶ。
指がくすくす笑う。
ずっとこのまま むき続けてもかまわない。
皮に触れるだけで充実の予感がする。

 ちょっと違うことを考えるでしょ? 考えたくなるでしょ? 「失礼ね! 想像しているようなこと、書いていません」と高橋は怒るかもしれないねえ。でも、それには、こう答えよう。「想像してるようなことって、何? 高橋さんが勝手に想像したんじゃないの?」さて、なんて答える? 答えてくれる?
 まあ、こんなことは突きつめることではなくて、その場限りでおしまいのことなんだけれど。この、その場限りのなんとかかんとかが、ことばにならないけれど、ことばにするとめんどうくさいけれど、わかるでしょ?
 この、なんとも言えない「わかる」がいいんだなあ。「肉体」の共有というものだね。道に誰かが倒れていて腹を抱えていると、それが自分の肉体でもないのに「腹が痛い」と「わかる」。ひとが誰かと目と目で変な合図をしている。唇を歪めて見せたり、舌先をのぞかせたり。自分のからだでもないのに、「あ、いやらしいことしている」(しようと、誘い合っている)ということが、肉体で「わかる」--そういう感じ。
 ことばで言ったり、実際に直接肉体が触れ合っているわけではないから、そんなことしていません、と言えば、それはそれでとおる。でも、そんな言い訳は、嘘。そういうことも「わかる」。
 「わかる」というのは不思議だ。
 「わかる」というのは、他人のことがわかるのではなく、「自分」がいままでしてきたことが「わかる」。思い出せる。そして、それを「することができる」。
 だから。
 ね、高橋のことばを読んでいると、高橋の隣でいっしょにグリーピースをむきたくなるでしょ? くすくす笑いながら。「この、莢のなかに並んでいるのは、ちょっと唇からのぞいた歯に見えない?」「奥に舌があって動いている感じに見えない?」「いや、あれに見えない?」「あれって?」「あれ」「いやらしいんだから」「私、真珠って言おうと思っていたんだけれど……」。
 そこにある、「充実」。
 高橋の書いていることは、あくまで違うんだけれど。

豆にたとえるならば、
毎日がグリーンピースのように
ぴちんぴちんだったらいいかもしれない。
それに比べたらそら豆は中身が少しで皮ばっかりだ。
でも柔らかい わたにくるまったような毎日もいいかもしれない。

 あくまで違うんだけれど「ぴちんぴちん」なんてことばを、わざわざ(?)ここでつかうのは、違わないからじゃない? やっぱり、あれのこと考えていない?
 「すけべ」というのは変なもので、中学生のころなんて、辞書のことばにも勃起したりするからねえ。そして、そういうことって、新鮮なことばの動きに出会うと、からだの奥からむくむくっと動いて出てくる。人間というのは、きっと、ことばがあるから「すけべ」になるんだ。
 あ、高橋は、そういうこと書いていない?
 書いていなくてもいいんです。
 「辞書」の例にもどると、辞書というのはことばの意味を調べるためにあるけれど、辞書を読みながら妄想し、オナニーするってこともある。そんなことのために辞書を発行したのではない、とつくった人は言うかもしれないけれど、そんなことは知ったことではない。ことばは、それを必要としているひとが必要に応じてつかうだけ。
 読んでしまえば、こっちのもの。高橋がなんと言おうが、「私はこう読みました」と言うだけ。「むきになって否定するのは、やっぱり、そういうことが書いてあって、見破られて恥ずかしいからでしょ?」

 というような私の脱線をけとばして、高橋のことばはぜんぜん違うところへ疾走していく。

あぁ、ほんとは
そんなこと どっちでもいい。
グリーンピースご飯はおいしい
ほんとにおいしい。
おいしくて走り出しそうだ。
私はきっと行方不明になる。

 わ、置いていかれてしまった。
 追いつくにはグリーンピースを買ってきて、いそいでグリーンピースご飯を炊かなくっちゃ。あつあつのグリーンピースご飯で、のどを、あちっあちっなんてふくらませて、むせながら食べなくっちゃ。そのまま走って、どこか知らないところへ行ってしまわなくっちゃ。
 あれ、でも「行方不明」「どこか知らないところへ行く」というのは、エクスタシーのことじゃない?
 私はあくまで「すけべ」路線で、ことばを読むのだった。

 別な言い方で感想を書いてみよう。「サービス」という作品。白葱が切ってある。切った先から、中心の緑の葱がはみだしている。葱を切ったままにしておくと、なかから緑の部分が伸びてくる。(それとも、まわりが縮んで行く?)そういう絵といっしょに、次のことば。

冷蔵庫の奥に使いかけのねぎ。
「あら あなた いつからそこにいましたっけ?」
そういえば思い出しました。納豆に少しずつ刻んでいた。
ねぎは陽気に 八百屋のあるじの口真似をして、
「さあさあ 奥さん おまけしとくよ」と
若黄緑の三センチのサービス。

使っても減らないねぎを手に入れたつもりだったが、
そのあと ぷっつりと ねぎは息絶えた。

 高橋は、読者のだれもが「肉体」で「おぼえている」ことをことばにしている。高橋のことばを読むと、自分が「おぼえていること」を、「そう、そっだった」と思い出す。そして、書いてあることが、いちいち「わかる」。自分のことばで言いなおすことができないくらい、きちんと「わかる」。
 生きている「肉体」の「生きている」がわかるのかもしれない。
 詩のなかに「口真似」ということばが出てくるが、「真似」するというのは「わかる」ということである。そのときの「わかる」を説明するのはむずかしい。
 でも、高橋の書いている「こと」は、真似できる。自分の「肉体」で繰り返してみることができる。葱を切って、使いかけを冷蔵庫にしまい、次に緑の部分が伸びているのを見ることができる。八百屋のおじさんの口調も真似できる。そのあと葱をつかいきってしまうこともできる。
 で、「あ、これはほんとうのことを書いてある」と思う。このことばは「ほんもの」と納得する。



詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社

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