詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(35)

2014-04-26 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(35)          

 「アレクサンドリアの王たち」はアントニウスがクレオパトラの子どもを王位につけたときのことを書いている。「史実」を書きながら、そこにカヴァフィスの主観をまぎれこませている。
 その王の衣裳が美しい。中井久夫は、その衣裳をカヴァフィスの創作であると注釈で書いている。「史実」は違う。つまり、こんな衣裳なら見栄えがするのに、というカヴァフィスの「主観」がそこに反映していることになる。

装いはピンクの絹。
胸にはヒアシンスの花束。
ベルトはアメシストの列とサファイアの列の二重の造り。
靴を結ぶ白のリボンには
ばら色の真珠の縫いつけ。

 豪華だが簡潔である。この簡潔さがカヴァフィスのことばの魅力である。豪華であればあるほどことばを簡潔にする。簡潔が豪華さを強靱なもの仕立て上げる。ことばが長いと、どこかに無駄があり、それが弱さにつながる。カヴァフィスの主観はあくまで短い。
 市民は「カリサリオンは弟たちより偉大だ、王の王だ」と叫ぶが、

アレクサンドリア市民は知ってた、むろんだ、
これはみんな言葉、芝居さ。

 カヴァフィスは、ここで「市民」に「歴史」を語らせる。「史実」を市民の「思い」として浮かび上がらせる。その結果、「歴史」が英雄たちによってつくられてきたという印象が消える。「歴史」は結局、庶民のものだという印象にかわる。
 カヴァフィスに「客観」があるとすれば、それは、こういう市民の声としての「歴史」だろう。市民はそのとき何を思っていた。語られなかったことばが、やがて次の王を迎えるときの「土台」になる。
 この独特の工夫がカヴァフィスの「声」を複雑にする。カヴァフィスは英雄の声も書くが、市民の声も書く。さらに、それに輪をかけるようにして、

アレクサンドリア市民は群れをなして祝祭に参加する。
熱狂して叫ぶ、見事な見世物に魅せられて、
ギリシャ語で、エジプト語で--。ヘブライ語で叫ぶのもいる。

 実際に違う「国語」を複数登場させる。複数の声に「史実」を目撃させる。英雄は死ぬが、市民は死なない。「死んだ」という記録が残らないから、「声」を抱えて生き続けている。

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