なぜ「一代限り」なのか。
自民党憲法改正草案を読む/番外53(情報の読み方)
2016年12月14日読売新聞夕刊(西部版・4版)のトップ記事。見出しは、
有識者会議後、御厨貴が記者会見している。「退位を制度化することはむずかしいとの認識でおおむね一致した」という。
この記事をどう読むかは非常にむずかしい。
私は「邪推/妄想」するので、これは今の天皇をなんとしても退位させたいという安倍の意向に沿った「結論」と読んだ。なぜ「邪推/妄想」するかというと「などの意見が出た」と書いているのに、そのふたつの「意見」は対立していないからである。いくつかの意見があるなら、当然「対立意見」があるはず。「対立意見」がないということは、最初から「対立意見」を排除する形で会議が動いているという証拠。
で。
「一代限り」は、ともかく今の天皇を退位させることが「先決事項」ということだろう。「制度化」すると、その「制度」にしばられて、次の天皇のとき、さらにはその次の天皇のとき、「自由」がきかなくなる。
次の天皇がやはり安倍の気に食わない存在になったらどうするか。「退位」の条件に「高齢」を限定すると、その年齢になるまでは次の天皇を「退位」させることができない。これでは「不都合」ということだろう。
次の天皇が気に入らないときは、またそのときで「特例法」を考えるべきであるということだろう。
「時代により国民の意識や社会情勢は変わる。将来にわたって判断できるような要件を設けることには無理がある」は、
という具合に、私は読んでしまう。
「将来にわたる制度化をした場合、硬直的なものとなり、恣意的な退位や、退位の強制が可能となり、象徴天皇と政治のあり方をかえって動揺させることもあり得る」というのは、論理的におかしい。「制度化」した場合、「硬直的」になるというのはそのとおりだが、「硬直的」であるかぎり「恣意的」なものが入ることはできない。また「制度化」されているなら、それは「強制」ではないだろう。「制度化」されていないのに、思惑で退位させることを「恣意的」「強制的」というのではないのか。
だからこの部分は、
ということではないのか。
で、そういうふうに読み替えてみると、今起きていることがより鮮明にわかる。
安倍は、天皇が「象徴としてのつとめ」を果たして、国民と触れ合い、国民の信頼を得ていることが「邪魔」なのである。天皇は、どうみても「護憲派」である。「憲法を守れ」と言っている。いまの天皇の下では憲法を改正し、戦争へ突き進むことはなかなかむずかしい。
天皇が安倍の政治を邪魔し、政策を動揺させている。安倍にとって、天皇は都合が悪い。
とりあえず、いまの天皇を「退位」させる。
そのあと、どうなるか。それは次の天皇の動きを見てみないことには判断しようがない。だから、将来的には何も決めないでおいておく、ということだろう。
特例法で、退位を「一代限り」とするのなら、次の天皇のときは「生前退位」は不可能だから、権力者(安倍)の思惑は反映されない--ということになるかもしれないが、私にはとてもそんなふうには思えない。
「退位」がだめなら「譲位」させるという方法がある。「摂政」を設置するという方法もある。安倍は、今回はあきらめようとしているのかもしれないが、次はぜったい「摂政」を設置したいと狙っている。
「退位」と「譲位」は同じか。天皇がかわるわけだから同じに見えるかもしれないが、きっと違う。政治は「同じこと」を違うことばで言うときもあれば、「違うこと」を同じことばで言うときもある。「理屈」はどうとでも言える。
「摂政」の場合は、どうか。前面に出てくるのは天皇ではなく「摂政」なのだから、国事行為においては「摂政」と天皇の権能の差はない。
ことばは、そのことばがどんな「意味」でつかわれているか、さまざまな文脈のなかで動かしてみないとわからない。
夕刊の情報は少なすぎて判断できない部分が多いが、安倍の思惑をどう隠して天皇を「退位」させるか、有識者会議の動きと安倍の動きを関係づけながらみつめる必要があると思う。
自民党憲法改正草案を読む/番外53(情報の読み方)
2016年12月14日読売新聞夕刊(西部版・4版)のトップ記事。見出しは、
退位「一代限り」で一致/有識者会議 制度化は「困難」
有識者会議後、御厨貴が記者会見している。「退位を制度化することはむずかしいとの認識でおおむね一致した」という。
来年1月にもまとめる論点整理で、現在の天皇陛下に限り退位を認める方向を示すことを大筋で確認したものだ。
御厨氏によると、この日の会合では、退位について「時代により国民の意識や社会情勢は変わる。将来にわたって判断できるような要件を設けることには無理がある」「将来にわたる制度化をした場合、硬直的なものとなり、恣意的な退位や、退位の強制が可能となり、象徴天皇と政治のあり方をかえって動揺させることもあり得る」などの意見が出た。
この記事をどう読むかは非常にむずかしい。
私は「邪推/妄想」するので、これは今の天皇をなんとしても退位させたいという安倍の意向に沿った「結論」と読んだ。なぜ「邪推/妄想」するかというと「などの意見が出た」と書いているのに、そのふたつの「意見」は対立していないからである。いくつかの意見があるなら、当然「対立意見」があるはず。「対立意見」がないということは、最初から「対立意見」を排除する形で会議が動いているという証拠。
で。
「一代限り」は、ともかく今の天皇を退位させることが「先決事項」ということだろう。「制度化」すると、その「制度」にしばられて、次の天皇のとき、さらにはその次の天皇のとき、「自由」がきかなくなる。
次の天皇がやはり安倍の気に食わない存在になったらどうするか。「退位」の条件に「高齢」を限定すると、その年齢になるまでは次の天皇を「退位」させることができない。これでは「不都合」ということだろう。
次の天皇が気に入らないときは、またそのときで「特例法」を考えるべきであるということだろう。
「時代により国民の意識や社会情勢は変わる。将来にわたって判断できるような要件を設けることには無理がある」は、
時代により権力者の意識や、権力者が望む社会の形が変わる。恒久的な制度にしてしまうと、権力者の思うような働きかけができない。今回、官邸側は天皇に対して「摂政」の設置を持ちかけたが、天皇が拒否したという経緯がある。そういう働きかけが、いっそう困難になる。だから「制度化」しない。
という具合に、私は読んでしまう。
「将来にわたる制度化をした場合、硬直的なものとなり、恣意的な退位や、退位の強制が可能となり、象徴天皇と政治のあり方をかえって動揺させることもあり得る」というのは、論理的におかしい。「制度化」した場合、「硬直的」になるというのはそのとおりだが、「硬直的」であるかぎり「恣意的」なものが入ることはできない。また「制度化」されているなら、それは「強制」ではないだろう。「制度化」されていないのに、思惑で退位させることを「恣意的」「強制的」というのではないのか。
だからこの部分は、
将来にわたる制度化をした場合、硬直的なものとなり、権力者の思惑を反映させることができない。権力者による恣意的な退位や、退位の強制が「不可能」となり、権力者にとってつごうのいい政治ができなくなる。象徴天皇が政治の邪魔をし、かえって政治を動揺させることもあり得る。
ということではないのか。
で、そういうふうに読み替えてみると、今起きていることがより鮮明にわかる。
安倍は、天皇が「象徴としてのつとめ」を果たして、国民と触れ合い、国民の信頼を得ていることが「邪魔」なのである。天皇は、どうみても「護憲派」である。「憲法を守れ」と言っている。いまの天皇の下では憲法を改正し、戦争へ突き進むことはなかなかむずかしい。
天皇が安倍の政治を邪魔し、政策を動揺させている。安倍にとって、天皇は都合が悪い。
とりあえず、いまの天皇を「退位」させる。
そのあと、どうなるか。それは次の天皇の動きを見てみないことには判断しようがない。だから、将来的には何も決めないでおいておく、ということだろう。
特例法で、退位を「一代限り」とするのなら、次の天皇のときは「生前退位」は不可能だから、権力者(安倍)の思惑は反映されない--ということになるかもしれないが、私にはとてもそんなふうには思えない。
「退位」がだめなら「譲位」させるという方法がある。「摂政」を設置するという方法もある。安倍は、今回はあきらめようとしているのかもしれないが、次はぜったい「摂政」を設置したいと狙っている。
「退位」と「譲位」は同じか。天皇がかわるわけだから同じに見えるかもしれないが、きっと違う。政治は「同じこと」を違うことばで言うときもあれば、「違うこと」を同じことばで言うときもある。「理屈」はどうとでも言える。
「摂政」の場合は、どうか。前面に出てくるのは天皇ではなく「摂政」なのだから、国事行為においては「摂政」と天皇の権能の差はない。
ことばは、そのことばがどんな「意味」でつかわれているか、さまざまな文脈のなかで動かしてみないとわからない。
夕刊の情報は少なすぎて判断できない部分が多いが、安倍の思惑をどう隠して天皇を「退位」させるか、有識者会議の動きと安倍の動きを関係づけながらみつめる必要があると思う。