詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

リッツォス拾遺(中井久夫訳)(5)

2014-04-25 10:04:28 | リッツォス(中井久夫訳)
リッツォス拾遺(中井久夫訳)(4)(作品は「現代ギリシャ詩選」から)

九 たそがれ

きみは知っている。閉め切った部屋の中の夏のたそがれを。天井板にかすかに赤い残照が映え、机の上には半ば詩が開かれて――。詩は二編だけ。一種の不死(むろん相対的さ)の、一種の自己満足の、一種の自由の、究極を極める旅の――そういった約束の反故だ。

そとの通りには、すでに夜の呼ばわる声。神々の、人間たちの、自転車の、軽い影。建築の仕事時間が終わった。若い建築労働者たちは、自分の道具を抱え、硬い髪を汗に濡らせ、着古した上着の漆喰のはねをとどめて、夕靄にニスを塗って荘厳する。

階段の上からの振子時計の断固たる八点鐘が廊下の端から端まで響く。すりガラスの裏に隠れた槌が力づよく打ち鳴らす、仮借ない時鐘の音。その刹那、永遠の鍵の回る音がする。鍵をかけているのか、外しているのか、どちらだろうか。詩人にはどうしても確かめられない、あれらの鍵の音。

 最初の部分は、いかにもリッツォスらしい「視覚」の風景だが、最後の部分は、私にはカヴァフィスの姿が見える。「鍵をかけているのか、外しているのか、どちらだろうか。」がカヴァフィスの世界だ。反対のことが向き合っていて、どちらかわからない。リッツォスはこれにつづけて「詩人にはどうしても確かめられない、」と書くが、そうだろうか。カヴァフィスは「どちらか」を確実に知っている。本能がどっちを望んでいるかを知っている。わかっているから苦悩する。一方は本能(欲望)を誘い、一方は欲望のままに動いてはいけないと戒める。この対立を意識(精神)の対立という形ではなく「声」の対立として描き出すのがカヴァフィスだ。
 リッツォスは禁欲的だが、カヴァフィスは禁欲的ではない。放蕩を好む。カヴァフィスは苦悩が官能をさらに刺戟することを知っているから、官能の手前で逡巡して見せるだけである。それは一種の自己演出である。。
 「確かめられない」のはむしろリッツォスである。「確かめられない」ということばにリッツォスが出てきてしまう。リッツォスは放蕩の本能を生きることはない。放蕩を放棄した人間から見れば、カヴァフィスの「揺れ」が「あいまい(確かめられない)」でだらしないものに見える。そして、なぜだろうと疑問に思う。その疑問が「確かめられない」という批判的なことばになってあらわれる。


十 最後の時

かぐわしいかおりが部屋に漂っていた。記憶からやってきたかおりかも。むろん、この春の宵だ、半ば開いた窓からはいってくるのかも。詩人はこれから携えて行く品物を選り出す。大きな鏡をシーツで覆う。こうなってもまだ詩人の指にまつわって離れないのは、かつての形よい身体の感触であり、おのれのペンの孤独な書き心地である。触覚に対立はない。詩の究極の合一だ。詩人は誰をあざむこうとも思わない。おのれの命の終わりが近づいている。詩人はもう一度自問する。「今の心境は感謝だろうか、感謝したいという意志だろうか」。寝台の下から詩人の古びたスリッパが覗いている。詩人はスリッパには覆いをかけないでくれという(むろん別の時にすることだ)。詩人はちいさな鍵をチョッキのポケットにしまい、スーツケースに腰をおろす。部屋のまんまん中だ。ほんとうにひとりだ。詩人は鳴咽しはじめる。おのれの無垢をはじめてこのように正確に意識して。

 この詩には視覚以外のものがある。「かおり」と「身体の感触」(触覚)。「触覚に対立はない」という表現はカヴァフィスの世界を核心をあらわしたものだと思う。ただし、その前の「形よい」という表現はやはりリッツォスであってカヴァフィスではないと私は思う。カヴァフィスなら「形よい」とはいわずに「見目よい」というに違いない。「形よい」と「見目よい」はどう違うか。「形よい」の「よい」は対象に属する。「見目よい」の「よい」は自分の目にとって心地よい。カヴァフィスなら、対象そんなふうに自分の肉体に引きつけるだろうと思う。自分の肉体の好みで「よしあし」を決める。リッツォスは視覚の詩人なので、どうしても対象を自分から切り離して、客観的なところから眺めてしまう。
 この「触覚」へ入っていく前の、「大きな鏡をシーツで覆う。」の「覆う」がリッツォストカヴァフィスの違いを象徴している。「触覚」へ入っていくためには、視覚人間のリッツォスは鏡を隠さないといけない。眼で自分の姿を確認する(鏡を見る)ことをやめる(視覚を封じる)ことでしか触覚に没入できない。
 カヴァフィスが「自画像」を描くなら、鏡をシーツで隠したりはしない。鏡に自分の姿を映し、その眼に見える肉体に、眼で触る。眼もカヴァフィスにとっては触覚になる。すべての感覚は「肉体」のなかで融合している。



十一 死後

大勢が詩人に寄越せという。詩人を取り囲んで押し合い争う。詩人の上衣を狙ってのことだ。ふしぎな上衣だ。堂々とした正式の上衣なのに、どこか艶なところがあり、一風変わった味がある。神々がおしのびで死すべき人間たちとつきあう時に着たまう衣類一式の、この世ならぬ風情に通じるものだ。神と人とが共通の言語で共通の話題を語る時、にわかにその衣の襞がふくらむのは、無限定なるもの、彼岸なるもの吐息のためだというが。
 争いは続く。詩人に何ができよう。群衆は詩人の衣を裂き、下着を裂く。革帯もちぎった。取り残された詩人はただの裸の人。恥かしいその姿勢。皆あっちへ行ってしまった。まさにこの刹那に詩人は大理石に変容する。長い年月が過ぎて、大衆はここに輝かしい彫像のあるのに気づく。すくっと立った、ほこらかな、裸形の姿。パンテリオン産の大理石を刻んで作られた「みずからを罰する永遠の若人の像」だと皆は言う。皆は巻いてあるカンバスを繰り出して像を包み、除幕式がいつ始まってもよいようにする。

 詩人の上衣の描写がおもしろい。それこそ一風変わった味がある。上衣「艶がある」の理由を、「神々がおしのびで死すべき人間たちとつきあう時に着たまう」衣類と似ているからだという。そこには「神(不死)」と「死すべき人間」という相いれないものが同居している。矛盾の共存がカヴァフィスの特徴である。
 「おしのびで」というのも、すばらしくカヴァフィス的だ。ほんとうはタブーなのだ。タブーには「この世ならぬ」ものがついてまわる。この世の常識を無視してタブーを生きるとき(カヴァフィスの場合はそれは男色を意味するが)、この世にはなかったものが出現する。この世では手に入らないものが直に触れてくる。
 それは神と人間との「共通の言語」となって動く。神は人間のタブーにはしばられない。この世のタブーを破るものだけが、神との共通言語を手に入れる。タブーを破ったものの「声」は神と対話する声なのだ。
 その「共通の言語」をリッツォスが「無限定」と呼んでいるのは正しい。それは「理性」の限定を叩き壊して、本能に直接語りかける。

十二 遺産

あの亡くなった詩人はほんとうに立派な詩人だった。比べるもののない優れた詩人だった。詩人が私たちに残してくれたものはさて何だろうか。それは、わらわれ自身を測る絶好の物差しである。何をさておいてもわが隣人を測るにはもってこいだ。あ、この人はあの人よりも低い。とても丈が低い。この人は幅が狭い。この人は竹馬のようにひょろりと高い。誰にも何の価値もない。無だ。ないのだ。われわれだけだ。われわれはこの物差しにぴったりの使い方をした。だが、どんな物差しのつもりだ? これこそは復讐の神ネメシス、主天使の剣である。われわれはすでに剣を研いだ。今やありとあらゆる者の首をはねることができるのだ、次々に。
                            一九六三年秋 アテネ


 カヴァフィスを(その詩を)、「物差し」と定義したのは、とても魅力的だ。カヴァフィスの詩は、「主観」の表明である。「客観」というものを書こうとはしていない。しかし、それが「客観」ではなくて「主観」だからこそ、「物差し」になる。
 だいたい人間の価値、感情の価値というものなど測ることはできない。リッツオスは「秤」ということばを何度か一連の作品のなかでつかっているが、その秤は「重さ」を数値として客観的に測るのではなく、比較するものである。右寄り左の方が重い、あるいは左寄り右が重い、いや二つひとしい(釣り合っている)という具合に。それはあくまで「ある主観」と他の主観を比較しているのであって、絶対的な数値、客観的な事実を測定しているのではない。感情(欲望)には数値などないから客観化はもともと無理なのだ。
 カヴァフィスは客観を放棄し(客観を他人の判断に任せ)、主観だけを詩のなかに放り出した。剥き出しの主観、つまり本能の正直さをそのまま声にした。
 その輝かしい本能の声、無垢な本能の強い声と比較しながら、私たちは私たち自身の本能がどこまで到達しているかを知る。カヴァフィスの巨大な主観と比べると、私たちの主観など限定されたものに過ぎない。「物差し」の単位が違いすぎて、私たちの主観はカヴァフィスの主観では測ることができない。私たちは私たちの主観の首がはねられるのを震えながら受け入れるしかない。リッツォスの客観は、敬意をこめて、カヴァフィスをそんなふうに評価している。
 この詩をリッツォスが書いたのが「一九六三年」ならば、カヴァフィスの死後三〇年たつ。リッツォスはカヴァフィスを追悼することばを見つけ出すまでに三〇年の年月を必要とした。それほどカヴァフィスは巨大だったということだろう。



括弧―リッツォス詩集
ヤニス リッツォス
みすず書房

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