きぼう屋

生きているから生きている

無条件の交わり

2012年05月21日 | 教会のこと
今週の週報巻頭エッセイです。

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「無条件の交わり」

「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる(マタイ5:45)」。
当教会がホームレス支援炊き出しを開始して丸12年。(最初はNPOでなく教会内の委員会でした)。
当初は炊き出し参加者全員が路上生活者でした。
しかし、現在は自立支援も進み、生活保護でのアパート生活者も多く、実は炊き出しに来られる方の半分は路上生活者ではありません。

そうなると、炊き出し参加条件が、参加者の間で議論もされます。
「ホームレス支援」なので、路上で苦労している人のための炊き出しであり、生活保護受給者は来るべきでない、という意見がよく聞かれます。

ホームレス支援活動は当教会関係者を中心に、全国の方からの献金で成り立っています。
献金される方も楽な生活をされているわけではありません。
けれど命にかかわる路上生活をせざるを得ない方を熱く覚えつつ献げて下さっていると思います。
となると、生活保護者の食事にも献金が用いられることは、献金者の思いとも、多少ずれるのかもしれません。

しかし、この5年ほど、炊き出し参加者の中の生活保護受給者の割合が増え始め、
また、年金受給者、留学生を含む苦学生、旅人の参加もあり、
炊き出しの意味の変化を実感します。

そして、実は炊き出しは、より聖書の目指すものへ近づいているとも思わされています。
つまり、参加資格、条件は全くなく、誰もが参加できるものへなってきていると思うのです。

炊き出しは確かに食事を提供する場です。
しかし、主イエスが、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる(マタイ4:4)」と語られ、
有名な五千人の共食でもこの事柄が起こされたことを知るとき、
炊き出しでも同じことが起こされていると認識することはできないか、と思っています。
主イエスは、炊き出しにて、パンの分かち合いと同時に、神の言葉の分かち合いを起こしているのではないだろうか、と。
それは、路上生活者も、生活保護受給者も、年金生活者も、学生も、会社員も、主婦も、子どもも、ボランティアも、
食事を共にし、顔を合わせ、声をかけあう事実が、キリストの体という神の言葉で生きることだと思うのです。

礼拝もきっと同じです。
どんな境遇の人も神により集い、キリストの体とされ、誰一人排除されず、悪人も正しくない人も交わりに加わり、共に救いに与ります。

またこの交わりからは特徴が発見されます。
炊き出しも礼拝も、最初は自分が空腹や苦痛から解放されることを目的としながらも、
集い続ける中で、
他者の空腹や苦痛にキリストと共に寄り添い、他者を愛し、他者のために祈り、他者と共に生きることまで起こされるという特徴です。
礼拝も炊き出しも、そのようになっていることを主に感謝しつつ。
さらにそうなるよう主に祈り期待しつつ。