きぼう屋

生きているから生きている

士師記はむずかしいですが・・・

2012年05月14日 | 教会のこと
今週の週報巻頭エッセイです。
ひさしぶりにアップです。
この間(一ヶ月ほど)の週報巻頭エッセイは極めて教会内部向けだったのでアップできず。

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「士師記はむずかしいですが」

今、私たちは、礼拝と教会学校にて士師記からのメッセージを分かち合っています。
でもとてもむずかしいです。
それは、戦争が神の名によって肯定されていく記事があるからだと思います。

十戒の「殺すなかれ」も、
原語のヘブライ語からすると、
自分の属する共同体内部の人を殺すな、という命令ではあっても、
共同体外部の人を殺すな、までは言っていないという解釈が生まれてしまいます。

となると、
まず、旧約聖書の時代の共同体外部の人とは、どういう者として認識されていたのか、
を、考えてみたいと思います。
結論から言うと、
おそらく、今で言うところの宇宙人のように、共同体外部の人を認識していたのではないかと思います。
外部の人については、客観的な情報もなく、もちろん出会うことも対話することもなく、
ただただこちら側の一方的な思い(込み)のみあっただろうと思います。
また、今の時代の映画などで宇宙人が地球人を攻撃する存在として描かれるように、
当時も自分たちの命を狙う者として共同体外部の人が認識されていたのではないでしょうか。
そして、この背景の中で、外部の者から自分たちを守る神が語られたのだろうと思います。

現在、この地に住む私たちは、
自分のかかわる共同体や国以外の人を、自分の命を常に狙う存在とは認識しないだろうと思います。
地球にはそういう存在はいないと普通に考えていると思います。

でも逆にこういう環境に生きる私たちが問われるのは、
共同体を失ってしまうことがあること、
共同体への責任感が薄くなってしまうこと、
共同体(特に国家)が、自分を守る最大権力として理解されるに留まること、
などが、起こっているということではないでしょうか。

すると、共同体は個人を守るための道具にすぎなくなってきます。
でもそうなると、
私たちにとって大事なことが、
旧約の時代では共同体全体を守ることであったものが、自分自身を守ることへと変化しているかもしれません。

本当は、共同体全体を守ることから、それを越えて全宇宙の命を守ることへの変化を願うところでもありますが、
逆にもっと狭くなって、自分自身のみが守る対象となっている気もします。

そうすると、もしかしたら旧約時代より、現在は、聖書の語る世界からは、遠くなっているかもしれません。
当時よりもはるかに破壊的な戦争が起こったり、隣の住人の状況を知らないということが起こるのは、そういうことかも知れません。

だから、女性士師デボラが、個々人を、裁くことにおいて救いに導いたことは重要です。
私たちは、神に自らの罪を見出していただき、それを丁寧に裁かれることで、
他者や他共同体の者との和解、共生に目覚めるのでしょう。

主の恵みを数えることと、罪を数えることは、実は同じ神からの救いの出来事であるわけです。
そしてひとつひとつ数えられる中で、私たちは悔い改め、十字架をいただき、復活の命として救われます。