日本バプテスト京都教会の今週の週報巻頭エッセイです。
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「あなたの罪は赦された」
せっかく教会と出会い、主イエスと出会い、神に出会ったのだから、
私たちは信じるべき事柄を信じたい。
それは、
主イエスが十字架にて私たちの罪を身代わりとなって背負い、
主イエスが裁かれることにおいて、私たちの罪が神により赦されたという事実である。
今も主イエスは私たち一人ひとりの日常生活の鍵となる場面で宣言される。
「あなたの罪は赦された」。
そして私たちはその宣言を受け、信じ、赦された者として生きることができる。
私たちは心から本気でこの宣言を信じ、赦された者として歩みたい。
赦されているという大前提を心身の隅々にまで行き渡らせて、
さわやかにやわらかく深く豊かに、そして明るく幸せに歩みたい。
信仰とはそのような歩みである。
しかし、一般論として、
今、たとえば教会にはじめて足を運んだ方はどのように思うだろう。
元気がなく教会運営が厳しいと日本の教会界が自己評価しているくらいであるからして、
恐らく多くの教会は、どんよりとし、堅苦しく、暗いと思わせてしまうのではないだろうか。
私は、教会は丁寧に自己分析し悔い改めねばならないと常々思う。
教会の衰退は、教会が信仰を歩んでいないからに他ならないと考える。
私たちの罪は赦された。
この事実が具体的に私たちにどのような歩みを備えるかというならば、
それは、既に赦されているゆえに、自らの罪を一つひとつ丁寧に担うことができるという歩みである。
またそればかりではない。
同時に、他者の罪をも引き受けることができるという歩みである。
赦しを信じる者は、そのようにして自らの、そして自らの生きる仲間と歴史の罪を、
ある意味堂々と担うことができる。
そして他者の罪を引き受けるとき、同時にその他者の苦難をも引き受けることとなる。
大震災における被災者の苦難の引き受けは、被災者の罪の引き受けと決して別々に起こりはしない。
ただ罪と苦難の議論はここではしない。
本日は、罪を担うこと、十字架を背負うことが、信仰者のみに可能なことであることを分かち合いたい。
赦された者のみ!が罪を担うことができる。
しかし赦しを信じられないとき、逆に罪を放棄し、他者になすりつけることが起こる。
教会は「個人」を見出した。
キルケゴールが十字架を「単独者」として背負うことを信仰と呼び、
赦された者は単独で罪を担うことができることが発見され、それが「個人」とされたのだ。
しかし近代の「個人」は異なる。
罪というテーマのないところでの自己発見、自己実現、自己確立によるものを「個人」とし、
発見、実現、確立にどうしても障害となる罪は逆に排除されるのだ。
そして残念ながら、歴史的に教会は「個人」の中身を問いきれていない。
だから、和解より数的成長を、共に苦しむことより自分の目標達成のための神を求め続けた。
結果、教会はどんよりとなる。
私たち教会はいかがだろうか。
赦しに生き、罪を互いに背負いあい、さやわかに豊かに共に苦しみ泣けているだろうか。
祈りつつ。
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「あなたの罪は赦された」
せっかく教会と出会い、主イエスと出会い、神に出会ったのだから、
私たちは信じるべき事柄を信じたい。
それは、
主イエスが十字架にて私たちの罪を身代わりとなって背負い、
主イエスが裁かれることにおいて、私たちの罪が神により赦されたという事実である。
今も主イエスは私たち一人ひとりの日常生活の鍵となる場面で宣言される。
「あなたの罪は赦された」。
そして私たちはその宣言を受け、信じ、赦された者として生きることができる。
私たちは心から本気でこの宣言を信じ、赦された者として歩みたい。
赦されているという大前提を心身の隅々にまで行き渡らせて、
さわやかにやわらかく深く豊かに、そして明るく幸せに歩みたい。
信仰とはそのような歩みである。
しかし、一般論として、
今、たとえば教会にはじめて足を運んだ方はどのように思うだろう。
元気がなく教会運営が厳しいと日本の教会界が自己評価しているくらいであるからして、
恐らく多くの教会は、どんよりとし、堅苦しく、暗いと思わせてしまうのではないだろうか。
私は、教会は丁寧に自己分析し悔い改めねばならないと常々思う。
教会の衰退は、教会が信仰を歩んでいないからに他ならないと考える。
私たちの罪は赦された。
この事実が具体的に私たちにどのような歩みを備えるかというならば、
それは、既に赦されているゆえに、自らの罪を一つひとつ丁寧に担うことができるという歩みである。
またそればかりではない。
同時に、他者の罪をも引き受けることができるという歩みである。
赦しを信じる者は、そのようにして自らの、そして自らの生きる仲間と歴史の罪を、
ある意味堂々と担うことができる。
そして他者の罪を引き受けるとき、同時にその他者の苦難をも引き受けることとなる。
大震災における被災者の苦難の引き受けは、被災者の罪の引き受けと決して別々に起こりはしない。
ただ罪と苦難の議論はここではしない。
本日は、罪を担うこと、十字架を背負うことが、信仰者のみに可能なことであることを分かち合いたい。
赦された者のみ!が罪を担うことができる。
しかし赦しを信じられないとき、逆に罪を放棄し、他者になすりつけることが起こる。
教会は「個人」を見出した。
キルケゴールが十字架を「単独者」として背負うことを信仰と呼び、
赦された者は単独で罪を担うことができることが発見され、それが「個人」とされたのだ。
しかし近代の「個人」は異なる。
罪というテーマのないところでの自己発見、自己実現、自己確立によるものを「個人」とし、
発見、実現、確立にどうしても障害となる罪は逆に排除されるのだ。
そして残念ながら、歴史的に教会は「個人」の中身を問いきれていない。
だから、和解より数的成長を、共に苦しむことより自分の目標達成のための神を求め続けた。
結果、教会はどんよりとなる。
私たち教会はいかがだろうか。
赦しに生き、罪を互いに背負いあい、さやわかに豊かに共に苦しみ泣けているだろうか。
祈りつつ。