きぼう屋

生きているから生きている

神の歴史を生きる

2012年01月16日 | 教会のこと
今週の日本バプテスト京都教会週報巻頭エッセイです。

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「神の歴史を生きる」

「神様、罪人のわたしを憐れんでください(ルカ18:13)」。
主イエスは、「自分は正しい人間(ルカ18:9)」と信じ切っている人々を悔い改めに導くために、この徴税人の祈りを紹介する。

私たちは正しい人間であることが一瞬もない者たちであり、
神の赦しを受けるしかない罪人たちであり、
真剣にこの祈りをすべき者たちである。

しかし私たちは「自分が正しい」ことを欲する。
そして思い通りにならず、それが特に苦難を伴う場合、
その原因を「自分が正しい」ゆえに他人に見ることを繰り返してしまう。
私はそうでない人と出会ったことはない。
むしろ「自分は正しい」ことを無意識にも前提にすることが、私たちが罪人である所以でもあるに違いない。

私たち京都教会は今年60周年を迎える。
例えば最近一年の教会の交わりに起こされたことを振り返るならば、
当教会では単純にその60倍の出来事が起こっており、
それはもはや莫大な質量となっている。

そして私たちはその出来事を証しにて継承する。
聖書にてこれほどまでに神を信じる者たちの出来事が証言され継承されている以上、
私たちが実際に生きる教会の出来事も同じく継承され「ねばならない」。

その時に私は聖書にて継承されている出来事のトーンを覚える。
それは罪責が証言されていることと、
それに対する神の裁きと赦しと、
そこから将来への道を歩むための厳しいみ言葉によるトーンである。

歴史の中のうれしく楽しい出来事を証しすることは大事である。
しかしそれ以上に、膨大な質量の出来事を時間の限られた中で継承しようとするならば、
それは罪責告白となることを聖書は教える。

うれしい出来事の継承は、
逆にその出来事の継続を目指すことにもなり、
そのムードが原理化することにも繋がる。
すると私たちが知らずにそこに縛られる現象も起こる。

しかし罪責告白は、
神の憐れみの業に託すしかない出来事であり、
私たち教会は、
予想のできない開かれた新鮮な和解と癒しの道が神から与えられるところに、
覚悟を決めて賭けることとなる。

「自分が正しい」ことを欲する私たちの欲望は、
私たちが罪人であることと、歴史上の罪責を忘却させる。
他人や時代に原因を押し付け、神による和解と癒しの道を見逃す。
同時に「自分が正しい」から解放されないとき、
私たちは、神による豊かな和解と癒し、そして新たな出会いの可能性に広がる将来をも失う。
つまり、「自分が正しい」現状を維持する力が、神による将来の到来を妨げるのだ。

私は、様々な出来事、状況の罪責を知るために三つの問題を考えることにしている。
それは
① その状況のある共同体(自分)の歴史的体質問題。
② 国家の施策と雰囲気の問題(「皇帝のものは皇帝に」。また現在それは市場の問題でもある。)。
③ かわっている人の問題である。
この三つのうちの一つに罪を擦り付けることはできない。
いずれもが罪責告白を神の歴史を生きるために必要としている。 

私たちは60周年を神の憐れみを祈りつつ丁寧に迎えたく願う。