きぼう屋

生きているから生きている

真の伝道

2011年10月16日 | 教会のこと
今週の週報巻頭エッセイです。

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「真の伝道」

先日、大雨に見舞われタクシーで教会まで戻ってきたときのこと。
「荒神橋西詰めの教会まで」とお願いしたら、運転手がこちらを振り向いて「大谷牧師さんですか?」と言われる。

昨今、タクシー乗車時や地域の集い参加時に、当教会を認識している人に声をかけられる機会が多くなった。
運転手は、当教会のホームレス支援やバザーの働きに共鳴していると話してくれた。
またホームレス支援でいろいろ助けていただいているKさんが、
先日、結婚の報告のために訪れてくれた際、
いつものように近所のお茶屋で支援のための麦茶パックを購入し寄付してくださったが、
お茶屋の店主が当教会のホームレス支援を彼に感謝したことを同時に報告して下さった。

11月3日のバザーに向けて今年もみんなで準備を進めている。
正直大変な作業だ。
しかし今年もバザー準備奉仕の場は常に明るい。
それは恐らく私と同じく、
みんなそれぞれ当教会のバザーが地域の人々に愛されていることを具体的に見聞きするからと思う。
ホームレス支援ボランティアが明るいのも同様である。

つまり、当教会とここにおけるキリストの業が、
具体的にこの街のAさんやBさんの生活の助けとなっていることに接するとき、
奉仕する私たちは、確かに楽ではないけれども、
奉仕の只中で主の救いの喜びを経験しているのだ。

また、私はこの一年で教会が大きく変化したと認識する。
それは、この間に、
教会の交わりに加えられたことが具体的な救いとなったという証しが、
次々と起こされていることから発見する。

つまり、当教会は(時間はかかるが!)、あらゆる人をキリスト家族として迎え、
彼らの十字架を分かち合える共同体となってきたのだ。
自分の安定や救いのイメージではなく、
キリストが招く新しい人の具体的な救いとかかわりへと、意識する部分が変化したのだ。
新しい人との出会いが中心となったのだ。

そしてホームレスや知能、精神、発達障がい者に対する壁があったことを、私たちは忘れない。
差別的言動が起こったことも忘れない。
また、新しい人が主に招かれ加えられる時には必ず起こる共同体の雰囲気の変化がつらく、緊張関係が生まれたことも忘れない。

そしてこれらは今後も起こるだろう。
私たちは罪人の交わりに過ぎない。
しかし、起こるときには即座に罪を告白し和解を目指すことができるよう、
私たちは忘れない。

実に救いとは、
新しい人がキリスト家族に加えられる時、
その人の十字架こそが加えられ、
それを教会全体で背負うゆえに、
必ずそれまでとは教会の中身が変化するという神の働きである。
ゆえに私たちは新しい者と共に喜び共に苦しむ。

またこれが伝道である。
私たちは年に3回、地域に案内チラシを配る。
これは店舗の広告とは異なる。
というのは、
当教会が常に新しい人に開かれ、その人と共に変化し、共に十字架を背負い救いに与ることを具体的に知る時にこそ、
私たちは喜んでチラシを配ることができるからだ。
そしてそのようなチラシは命を持つ。

当教会は現在、
まずはバザーとホームレス支援において具体的伝道が起こされていることを知る。
なにしろバザーにはこの通りにお住まいの方がほぼ百%来場される。
これは主の業であり伝道そのものである。

私は、当教会では真の伝道が始まっていると、堂々と宣言したい。