きぼう屋

生きているから生きている

死とは?

2011年10月21日 | 「生きる」こと
「罪の報いは死である」
というところから、死と葬儀を考えてみました。
(先日のシンポジウムのパネリストになったからやっと考え始めました)。

そして罪をふたつから考えました。
ひとつは個人の罪
もうひとつは共同体の罪
これはいわば自己責任と社会責任をひっくり返しただけ。

葬儀の目的はこの中で共同体の罪を共有することである、と考えました。
死者個人の罪は、生前の牧会における罪告白への導きが勝負であり、
葬儀で彼の罪が語られることは牧会の失敗を意味し、
また失敗したからには、葬儀で語ることはなお許されず、
牧師が神の前に静かに立つことしかできない、と考えました。

ただ、これはキリスト者、それも教会共同体で生きたキリスト者の死と葬儀という、
限定付きです。
しかし311以後、教会や牧師は地域全体の死と葬儀にかかわることもテーマであることを考えると、
「教会」抜きの死と葬儀においては
「罪の報い」としての「死」を共有することは極めて難しい、と考えました。

さて、周りの反応ですが、

「教会」においても、死を「罪の報い」とすることに抵抗ある牧師が結構おられることにびっくり。

残念なところでは、「罪の報いは死である」というローマ書の言葉の解釈の問題!
といいつつ、全く解釈案を示せない中での意見。
だから対話不可能。
これはその方が聖書からではなく自分の気分としてこの聖書の言葉に反対していることを表明したもの。
牧師がこれではちょっと困るんだなあ。

もうひとつは、
丁寧に「罪」について、単数形と複数形、あるいは存在的なものと行為的なものにわけて説明するなかで、
死の原因となる罪をできるだけ少なくしようとする説明も多かったです。
ただ私には原理として単複や行為と存在で罪を分けることは理解しつつも、
論としてはよくわからないのですなあ。
僕らの存在と行為ってのはひとつであってわけられないと思うのです。

ただ、そのような原理を用いて新約聖書の物語という時間を獲得しつつの説明は、
対話が可能になるなあと思いました。

律法違反という複数形による行為的罪からの解放は、
律法に支配されている社会から見捨てられ、差別され、虐げられているという
その状態からの解放であることは間違いありません。

罪とは人を侵害する社会によって押し付けられたことなわけです。

でも、そういう罪ならば
罪の報いが死となることは、ごもっとも、となるかなあと思ったりもするわけです。
だって、人を傷つける社会の報いは死ですから。

ボンヘッファーは、全ての困窮の原因は罪であることを語ります。
つまり罪の報いは困窮といいます。
その困窮には死も入るはずです。
さらに律法違反的罪解釈から、ナチスドイツ下における死を考えていたかもしれないなあと、
彼のいろんな文章から考えたりします。

さらに、彼の中心テーマであるキリストへの服従への第一歩は
その罪をひとつひとつ告白すること、とまで述べます。

そのようにして、ボンヘッファーは、
カトリックにはあるもののプロテスタント教会が失っていた罪告白を復活させようと願ったわけです。


わたしは単純に原理化すると
旧約では神の呪いとしての死が描かれ、
新約では罪の報いとしての死が描かれている、と考えます。

そしてこのふたつを比較しつつ考える必要がありそうです。

逆に苦難と罪を分けたり、罪の中身を分けたりしても、堂々巡りはするものの発見はないと思ったりします。

むしろ大事なのは、苦難を呪いの範疇で捉えるか、罪の範疇で捉えるか、という議論です。

でもその議論はあまりに難しすぎるし、人間の限界を超えている可能性大なので、
苦難についてはわからない、と言うことができるのみかもしれません。
そしてここに立つならば、
死についてもわからない、と言うことができるのみだと思います。
となると、今回のシンポの意味もなしというわけで。

うーん、大きなテーマです。
そして、そういうテーマを真正面から提出できて、
しかも次回も議論を続けることが決定して、
なによりです。