今週の週報巻頭言です。
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「罪人の友」
昨日の朝、
昔やくざだった新藤龍也牧師がテレビで紹介されました。
前科7犯で覚せい剤もしていた彼は、
しかしこの経験を最大限に生かしつつ、
犯罪や薬物からの更生を目指す方々に
主イエスの救いを伝えておられるとのことです。
VTRを見て私は三つのことに感動しました。
ひとつ目は、
新藤牧師が「いつでもどこでもだれでもやり直せる」と語ったことです。
その通り!。
神の救いは身近な言葉でいうと「やり直し」だと思います。
でも歴史を通して
一度失敗した人はやり直しがきかない社会が作られています。
でも教会は「やり直し」からすべてが始まり、
キリスト者は繰り返しやり直せます。
そしてやり直す際、私たちは悔い改めます。
それは同時に罪人であることに気づくことです。
そしてなんと新藤牧師の教会は
「罪人の友 主イエス・キリストの教会」という名でした。
ふたつ目の感動はこれです。
主イエスは成功者、優秀者の友ではなく、罪人の友です。
また実は成功者、優秀者と自他どちらかに認められている者も実は罪人です。
「善人は一人もいない。いるのは罪人のみ」と聖書が語るとおりです。
感動したみっつ目は、
新藤牧師がやり直しを始めた人と寝食を共にしていることです。
その際、成功者が更生する者の世話をするのではなく、
罪人同士の生活が起こされることに主の秘密があります。
つまり、
寝食を長く共にするなら、
人は誰でも気を張り続けられず、
関係性の困難の中で心身も疲労すると思います。
そこでは罪人性があらわにされ、
悔い改めてやり直す繰り返しの中で
さらに共に生きることが
さらに豊かに起こされるわけです。
とりわけ近代以降の教会が見失いがちなのは、
人は罪人でしかないこと、
この世は罪人の交わりしかないこと、
しかしそれが主イエスにより豊かにされる
という事実、
ではないでしょうか。
個々人の環境と能力アップからすべてが始まるという近代の捉え方はもう古いです。
罪人のやり直しから全てが始まるのが真理です。
ぜひ罪人の友、主イエス・キリストに出会い、
罪人の交わりである教会家族として歩んでみませんか。
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「罪人の友」
昨日の朝、
昔やくざだった新藤龍也牧師がテレビで紹介されました。
前科7犯で覚せい剤もしていた彼は、
しかしこの経験を最大限に生かしつつ、
犯罪や薬物からの更生を目指す方々に
主イエスの救いを伝えておられるとのことです。
VTRを見て私は三つのことに感動しました。
ひとつ目は、
新藤牧師が「いつでもどこでもだれでもやり直せる」と語ったことです。
その通り!。
神の救いは身近な言葉でいうと「やり直し」だと思います。
でも歴史を通して
一度失敗した人はやり直しがきかない社会が作られています。
でも教会は「やり直し」からすべてが始まり、
キリスト者は繰り返しやり直せます。
そしてやり直す際、私たちは悔い改めます。
それは同時に罪人であることに気づくことです。
そしてなんと新藤牧師の教会は
「罪人の友 主イエス・キリストの教会」という名でした。
ふたつ目の感動はこれです。
主イエスは成功者、優秀者の友ではなく、罪人の友です。
また実は成功者、優秀者と自他どちらかに認められている者も実は罪人です。
「善人は一人もいない。いるのは罪人のみ」と聖書が語るとおりです。
感動したみっつ目は、
新藤牧師がやり直しを始めた人と寝食を共にしていることです。
その際、成功者が更生する者の世話をするのではなく、
罪人同士の生活が起こされることに主の秘密があります。
つまり、
寝食を長く共にするなら、
人は誰でも気を張り続けられず、
関係性の困難の中で心身も疲労すると思います。
そこでは罪人性があらわにされ、
悔い改めてやり直す繰り返しの中で
さらに共に生きることが
さらに豊かに起こされるわけです。
とりわけ近代以降の教会が見失いがちなのは、
人は罪人でしかないこと、
この世は罪人の交わりしかないこと、
しかしそれが主イエスにより豊かにされる
という事実、
ではないでしょうか。
個々人の環境と能力アップからすべてが始まるという近代の捉え方はもう古いです。
罪人のやり直しから全てが始まるのが真理です。
ぜひ罪人の友、主イエス・キリストに出会い、
罪人の交わりである教会家族として歩んでみませんか。