きぼう屋

生きているから生きている

証言の前に立つ

2010年01月22日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「証言の前に立つ」

ハイチの震災を覚え切に祈ります。
世界バプテスト連盟の救助隊が現地に入っています。
またキリストが震災を受けた全ての人と共におられす。
日本バプテスト連盟は次週より募金を開始します。
各自祈りつつ用意されることを提案します。

本日は1月17日です。
15年前の早朝に阪神間で大地震が起こりました。
私は東京で会社勤めをしており、
テレビの映像と、様々な被害の数字が増えていくことでのみ震災を知りました。

しかしこんな私も震災を少しずつ内臓に響くかたちで受けていきます。
それは被害者やボランティアの証言を直接聞くことによってです。

証言と、証言する方の存在を受けます。
ひとつひとつの生と死、傷と痛み、悲嘆と絶望と希望を受けます。

そして私はそれらを受けるときに、押しつぶされる感触と、
受けきれない弱さを繰り返し知ることとなります。

同じことが戦争を経験された方々の証言、
私の場合はとくに従軍慰安婦とされた方々の証言を受けるときにも起こります。

直接地震も戦争も知らない私は、
証言と証言者を受けることで地震と戦争を受けます。

これはつまり
戦争を知らない世代であり、地震の場にいない私が、
積極的にせねばならない責任ある行為です。

決して楽な行為ではありません。
証言者の全体重を背負う精神が求められ、その十字架を背負う信仰が求められます。

逆に言うならば、
信仰者は十字架を背負うよう神に召され、証言の前に立ちます。

それは同時に、十字架のキリストの前に立つことです。

本日午後4時から神戸教会で震災を覚える礼拝が開催されます。
その日に現地に入った野中宏樹牧師の説教と、被災された鮫島泰子姉の証言を受けます。
同時にキリストの十字架を明確に覚えます。

教会が大切にする証も全く同じ本質を持ってキリストの死を伝えるものであり、
キリスト教会はそれを二千年続けています。

人間にとって最も重要な行為は証であると言って過言ではありません。

証を受け、証をする。
そこに十字架がある。
そこに主の癒しと希望がある。

本日は強くそのことを覚えたいと思います。


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ひとつ前の記事で
京都における私の仲間に
ガンを担っておられる方が複数人おられ
現在の切なる祈りであることを
たとえ直接その方々を知らなくとも
このブログを通して
みなさんにも祈ってもらいたいので
書かせていただいているわけですが

その記事を書いていたまさにそのとき
福岡の大切な仲間が
ガンで召されました

キリストよ
来たりませ

今から会いに行きます

祈りつつ