きぼう屋

生きているから生きている

へばりつき

2009年07月28日 | 教会のこと
しばらくぶりの更新ですが
このかんはいろいろとありまして
いろいろ出会っていろいろひらめいていろいろ考えることがゆるされておりますが
しかし
最近のわたしは
そういうことを残しておくことをせず
またいつかなにかに触発されて勝手に脳みそが想起する
ことにすべてをゆだねておりまして

つまり

びっくりするほどどんどん忘れるのでございます

だから
このかんに何があったかをぜんぶは思い出せません

すみません



小学生キャンプがあって庭のイスをつくりました
Wさんの信仰告白とバプテスマがありました
それらの前後におおくの仲間が豊かにかかわるゆえのいろいろなことがありました

いずれも感動ものでした

小学生キャンプでは
子どもたちの成長ぶりがよくわかりました

そういうなかで
子どもたちはおおきくわけると
よくもわるくも
ふたつの仕方で成長することを確認できました

ひとつは
共に分かち合って歩むことができるようになるという成長
もうひとつは
大人の前でいい子になることでうまいこと歩むようになるという成長

原理だけで言えば
ウチの教会の場合は
前者のみで生きる選択をし
後者から解放されることを目指しますが

しかし
だれでもこの両方をもって成長するわけです

ただ
後者が多くを占めるようになると人間性を失うことになるので
それは要注意ですし
大人がそのあたりを見抜きつつ丁寧に共に生きることが大切なのだろうと思いますが

でも
大人には子どもが後者である状態を見抜くことがなかなかできない
ということもあるわけでして

つまり
大人が人間性を失い
なんらかの原理や価値観のみで生きているということが多く

この後者というのが
結構な今の時代のテーマなわけだと再確認しました


単純にいうと
単純に言うのでこれにすべてが当てはまることは絶対にないのですが
つまりこれを原理化して何かを考えることには意味を見出すことができないのですが

しかし単純にいうと

子どもどうしの交わりの質量を経験していると
前者が占める割合が多くなり
大人と付き合う時間が多いと
後者が占める割合が多くなる

のだなあと思いました

だからこそ
教会は
徹底的に家族として
めちゃくちゃ身近な者どうしとして
血縁など関係なく本当に家族として
歩むことを求められているわけです

ここで距離を置くと
「後の者は先になり、先の者は後になる」
のは本当なんですねえ

教会といわずとも
なんらかの交わりに
全身全霊でかかわることができているか
それとも
自分に都合のいいところだけもらうかたちで
それなりの距離でかかわるか

人間の成熟度は相当に異なってきます

なんでも徹底的にかかわることが大切です
それは
十字架をなんで俺が背負わねばならないねん
という思いが起こるほどまでに
徹底的にかかわることが大事です

この十字架性を獲得できないとき
聖書的にいうならば
人間は人間にはなれないわけです

するとどうなるか
人間は神を目指す生物となるわけです

これが偶像礼拝!!

鍵は十字架性!!


だから
例えばとりわけ学生時分から

クラスでもサークルでもなんでも
ぐちゃぐちゃっとした人間関係から
面倒くさい組織運営まで背負う体験をしていない人は

すこぶる要注意!!

いつからでも遅くないので
へばりつく関係性を確保したらよいと思います

聖書的にいうならば
それが聖霊の導きでございます



書いているうちにこのようにどんどん予想もしていない方向に話がいってしまうのですが
(最近は説教もそうなので
 もはや原稿を書いていないのですが)

次回は信仰告白とバプテスマのことを思い出してみます


さてさて
こういう気候で
心身ともに
あるいはいずれかが
疲労しきっている方がたくさんおられます

祈ります
主イエスが共にいます!!!


ではでは