きぼう屋

生きているから生きている

命どぅ宝の日

2010年06月27日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「命どぅ宝の日」

日本バプテスト連盟は、
全国女性連合の呼びかけにより6月23日を「命どぅ宝の日」として毎年覚えます。

1945年6月23日に沖縄地上戦が終結しました。
そしてこの日から沖縄は露骨に戦争システムの中で経済や生活が営まれることとなりました。
したがって6月23日は、
地上戦という惨事とそれによる死者や悲痛にある者を覚えると共に、
今日もなお沖縄は戦争状況にあり続けているし、
そこから解放されないシステムに縛られていることを覚え、
その苦痛を共に痛み、
そこからの解放のたたかいを、
解放の主イエス・キリストに従いつつ、
主と共に、
沖縄と連帯し、
具体的に祈り活動していくことを肝に銘じる日であります。

沖縄では米軍兵士による強姦、強盗が後を絶ちません。
自動車事故やヘリコプターの事故もあります。
自然破壊も起こります。
もちろん騒音問題もあります。
そして朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争に、
沖縄から、人を殺すために出発する軍人がいます。

しかし、生活者が脅かされ、様々な国の老若男女が殺されることで、
沖縄の経済がまわるシステムであり、
殺人と虐げにより、沖縄の生活者の命が保たれるという強烈なねじれを、沖縄はかかえています。

私たちはこのねじれを自らのこととして引き受けたいと願います。

主イエスがまず十字架にて引き受けています。

主がそのねじれにより自らの内臓がねじれる思いをするばかりでなく、
十字架でそのねじれゆえに殺されます。
主は一方の命を守るために虐げられ殺される他方の命と共に虐げられ殺されます。

その主の業によりキリスト者は
ねじれを覚え、ねじれに痛み、ねじれからの解放を祈り、そのために具体的に動きます。
つまりキリストの平和をキリスト共に叫び創ります。
それは虐げられ殺されるいのちが起こらざるを得ないシステムを神の国へと改革することです。

沖縄には「ちむぐりさ(肝苦さ)」という言葉があります。
他者の苦痛ゆえに自らの肝が苦しい、という意味です。
それは歴史を背負った言葉です。
ねじれを引き受けるゆえの言葉です。
「かわいそう」という言葉では置き換えられない言葉です。
わたしは勝手ながらここに十字架の主を見ます。

そして虐げられ殺される命があってはならないことを「命どぅ宝(命こそ宝)」として覚えたいと思います。

また沖縄の抱えるシステムは、実は地球規模のシステムであり、
その痛みを一部地域に押し込めているものであることを忘れてはなりません。

沖縄の現在の諸問題は、私たちの肝が苦しむべき問題であり、
十字架の主がすでに苦しまれている問題です。

聖書は常にこのような場面で言葉が語られ、
ここでキリストに従うように神は招きます。
ぜひ招きに応えたいと願います。