きぼう屋

生きているから生きている

インドプリ子どもの家から「家族」を学ぶ

2006年12月09日 | 教会のこと
ちょっと前ですが
11月26日の日曜日は
世界バプテスト祈祷週間を覚える礼拝でして・・・
愛知新生教会の古川博子さんをお招きすることが出来て
お話を伺いました。

彼女は一年間、プリ子どもの家で奉仕をされました。

さまざまなことをお話を伺う中で考えました。

まずは、「家族」というテーマ
親のいない子どもたちが共同生活をしているのですが
血縁ではないのだなあ・・・と改めて思いました。
彼らが「大家族」であることの凄みを伺いました。
同時に「血」の意味を問われました、

が、同時に
「キリストの血」で生きる宣言をする我々キリスト者は
「血」から「キリストの血」への新しい命への解放を信じるわけで

そういう「キリストの血」による「大家族」
インドプリ子どもの家は
実はキリスト教会の本質であると知りました。

キリスト教会が「キリストの血」でなく「血」にまだまだ縛られていることも気がつきました。


次に「家族」の基本というテーマ
コレは端的にきわめていい意味で宗教的で
共に祈り、キリストを分かち合うという、毎朝毎晩の行為・・・
そう!行為!!!!
にあるのだなあと思いました。
人間は行為しなければ実は何もしていないということで・・・
考えることや感じるという行為を起点にして
キリストや隣人と出会うならば、
共に祈るという具体的行為に導かれ、
行為として、明確に毎朝毎晩の祈りがある・・・・

さらに言うと、
これにさらに、世界へ広がる祈りという具体的祈りが加わるのだろうと思いました。
つまり、家族内の健康や保全という閉じこもりは、
不健康なつながりへと導くのみで逆に危険だなあと・・・

また不思議な思いを持ったところもありました。

勉強で地域のトップクラスに入ることが目的であること
そのために夜まで教師が勉強について、
できない子どもの手には鞭打つとのこと・・・・・

このあたりを歴史的、社会的にどう考えればいいのか・・・・


最後に
あの大きな津波被害のあと、
プリ子どもの家に生まれたばかりの赤ちゃんが置かれていて
その赤ちゃんを家族に招きいれ
そしてその日を誕生日として、
1歳のパーティーをしている写真が紹介されて・・・

この一点を知るだけでも
不可欠な働きであると強く思いました。

主よ
導きたまえ