きぼう屋

生きているから生きている

世界祈祷週間と灰谷健次郎

2006年11月27日 | 教会のこと
灰谷健次郎さんが亡くなった。
ぽっかり胸に穴があいた感触がある。
わたし自身が形成される上で、彼の作品は大きな影響があったことを
あらためて知った・・・

昨日の教会週報巻頭言です。
ちなみにこちらは原版です。
週報には、字数の関係で、端折っている部分もありましたので、教会員の方もぜひお読みください。

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 大変ショックです。23日に灰谷健次郎さん(作家、教育学者)が亡くなりました。ちょうど今、私は彼の作品を読み直しているところでした。論述というコトバの狭さを感じていて、物語というコトバの奥深さと意味を今一度味わいたいと思ったからです。
 そのことを22日の祈祷会で話したりした直後の23日の出来事・・・。悲しみを覚えています。
 彼の物語は人間を人間に戻してくれます。人間を人間に成長させてくれます。人間が神にもならず、モノにもならない場所へと導いてくれます。そういう意味では、聖書の物語と極めて近い働きをしていると思います。
 そして私は彼の「太陽の子」の中での次の言葉が好きです。
 「人間が動物と違うところは、他人の痛みを、自分の痛みのように感じてしまうところなんや。ひょっとすれば、いい人というのは、自分のほかに、どれだけ、自分以外の人間が住んでいるかということで決まるのやないやろか(新潮文庫318ページ)」。
 この物語は、沖縄地上戦を経て神戸に移り住んだ沖縄出身の人々の抱えるあまりにも複雑な出来事を見事に表現しているものです。まだ読んでいない方はぜひとも今すぐ書店へ。
 さて、これは聖書が語ることそのものでもあります。
 キリストが私たちの心にいます。しかしそれはキリストのみがいるわけではありません。キリストはキリストの身体として、つまり、世界の隣人たちそのものとして、私たち一人ひとりの心に飛び込みます。もっと言うと、世界の十字架を背負ったキリストが、世界の十字架そのものとして、私たち一人ひとりの心に飛び込んで、生活し始めます。同時に、世界中の隣人が生活し始めます。そしてこれが救いです。
 ホームレス襲撃事件がまた起きてしまいました。そこで大阪の小学校では、ホームレス生活者を招いて特別授業をした様子が朝日新聞社会面に掲載されました。その中で、ルポライターの北村年子さんが、「襲撃する子どもは心のホームレス」と語っています。
 心に自分以外の誰も住んでいないということです。心に自分だけが孤独のままにいるということです。そうすると、弱い者いじめをするようになるということでしょうか。つまり、心に自分しかいないということは、自分をも他者をも人間でなくしてしまう・・・神かモノに変質させてしまうという出来事なわけです。
 だからこそ、心にキリストがあらゆる隣人とその十字架をひっさげて飛び込んでくることこそ、人間が人間となるという、まさに救いです。
 そこで私たちは初めて、飛び込んでもらったことによって、神、世界、隣人に目覚めます。そこへと解放されます。
 今週は世界バプテスト祈祷週間です。これは、私たちの心に世界の隣人が住むという出来事です。本日、古川博子姉の証しを通して、インドプリ子どもの家の子どもたちが、私たちの心に住み、また先週の礼拝説教を通してルワンダの傷み悲しむ人が、私たちの心に住むということです。
心に自分以外の人が何人住んでいますか。
またこの問いは、次の問いと全く同じ問いでもあります。
心にキリストが住んでいますか。
(日本バプテスト京都教会2006年11月26日週報巻頭言)