きぼう屋

生きているから生きている

復活の主

2011年04月26日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「復活の主」

イースターおめでとうございます。
今年も復活の主が私たちと共におられることを喜びの中で覚えます。

ところで復活の主はどこにおられるのでしょう?
ここではルカ福音書から分かち合います。

主は復活の後、エマオで弟子に会われます。
まず弟子たちが主イエスについて話しているとき、
すでに主が弟子たちと共にいます。
しかし弟子たちは隣におられるのが主イエスであることを知ることがゆるされませんでした。

次に主イエスが生前時と同じように、弟子たちに聖書の話をします。
しかしそこでも、弟子たちはお話されているのは主イエスであることに気が付きません。

ではどこで弟子たちは隣におられる方が主イエスであることに気づくのでしょうか。

それは、共に泊まり、共に祈りをし、共に食事をした時でした。

私は火曜日から昨日まで、石巻、南三陸町、気仙沼にでかけておりました。
特に石巻のとある集落の住民の避難所では、避難者と共に昼食をいただきました。
彼らが誘ってくださいました。

その食卓は重たい雰囲気が漂うものでした。
というのは、避難されているみなさんが、
津波のことを語られる中で、食事をするからです。

しかし彼らは津波のことを語るとき、食事を口に全く運びません。
つまり、食べながら話すことが出来る内容ではないわけです。
でも彼らは、
私に津波による苦しみを訴えたいゆえに、
食事が喉に通らず、食卓が重たくなろうとも、
食卓に私を招いてくださったのです。

私はそこで、
お孫さんとお嫁さんを亡くされたおばあさんの話、
家も仕事も失い先も見えず疲れきっている男性たちの話、
死にたいという話、
などなどを伺いました。

私は、この食卓で、主イエスと出会ったと思います。

弟子たちのしていた主イエスの十字架の話は、
食事の席でされてこそ、それはつまり重たい食卓になるわけですが、
そこでこそ、復活の主へとつながるのではないでしょうか。

聖書のことばも、共に寝食する仲間として分かち合うときにこそ、
復活の主との生々しい出会いとして受肉されるのではないでしょうか。

復活の主は、
イエスや被災者「についての」話をしているときや、聖書の話を聞いているときではなく、
具体的に共なる寝食が起こるとき、はっきり認識されます。

そこで主イエスは、
具体的にすべての苦しみを背負う方として共に生きておられることを豊かに私たちに示されます。

今年は例年以上に、具体的な復活の主に出会ってまいりましょう。