きぼう屋

生きているから生きている

人の子が来る

2012年07月27日 | 教会のこと
遅くなりましたが、今週の週報巻頭エッセイです。

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「人の子が来る」

「その苦難の日々の後、たちまち
太陽は暗くなり、
月は光を放たず、
星は空から落ち、
天体は揺り動かされる。
そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める(マタイ24:29~31)。」

この有名な終末の神の業は、いつか将来に起こる出来事なのだろうか。
その時が来るまでは私たちには何の影響も与えないものなのだろうか。
この業は全宇宙の終末という超壮大な出来事のことを語っているのだろうか。
現在の私たちの身近な出来事として現れることとしては描かれていないのだろうか。

終末。
この出来事の前に私は言葉を失う。
苦難の日々の後に、さらにこれまで維持されていた全てが崩壊する。
苦難の後に即解放ではなく、さらに輪をかけて、その苦難の限界を超えて、私を維持しているすべてが崩壊するということが起こされていく。
するとそこで、人の子を私たちは見るとのことだ。
しかし人の子を喜びいっぱいに迎えるのではなく、悲しみのなかで迎える。
救い主を目の前にしても喜びではなく悲しみが染み出す状況が起こされていく。
人の子と私たちとの出会いの際に起こる私たちの状況がこんなにもつらく暗いものであることを、
私たちは私たち自身の想像力や経験からは了承することができないだろう。
あまりにもしんどすぎる。
しかし、この人間の解放の感覚を超えたところに、
人の子による本当の解放、救いがあることを、実はこんなに有名な終末の記事はあっさりと教える。

地震、津波被害、原発被害、経済最優先システムによる被害を被っているまさに今のこの国の多く人は、
実に苦難の上に苦難を覚え、救い主が現れてもなお、悲しむしかない状況にあるのかもしれない。
それは例えば礼拝しても、祈っても、讃美しても、悲しみがあふれるばかりで、突破口が見つからないという状況かもしれない。

しかし、にもかかわらず、人の子が来る!と聖書は語る。
私は、まさに今、ここに、人の子が来ると語られていると信じる。

そして人の子による(私たちの讃美を超えた)ラッパの讃美が天使たちを遣わす。
天使たちは私たちのために働く。
それは、四方から交わりとして何度でも呼び集めるという働きとのことだ。

日常の状況が苦しすぎるゆえに、礼拝も、祈りも、讃美も、慰めにならない出来事がある。
その時、そこで慰められない者の信仰がないというわけではなく、神がわからないというわけでも絶対にない。

その時は、端的に人の子が来る時なのだ。
なにがなんでも人の子が来る。
私たちのために人の子が来る。
これは将来の話ではなく、まさに、いま、ここに起こることなのである。