きぼう屋

生きているから生きている

もっとばらばらに!

2007年11月23日 | 教会のこと
服も背の高さもばらばらで
ぜんぜん並んでいなくて

いいねえ!!



わたしたちの日本バプテスト京都教会のホームページ
写真を見て言ってくれた人がいた。

うれしいねえ。。

これぞ目指していることだから。。。

もっと見てもらうと
表情もみんな違うんよねえ。
笑う顔あればしらけた顔あり
さっぱりした顔あればしんどい顔あり

これはもっと目指していること

つまり
同じ時間と空間にいたら
みんな同じように盛り上がり
同じような気分になり
同じような顔になるってのが

一番怖いのだ。

そんなんでよければ
野球場なりサッカー場なり
コンサート会場なり
なんらかのサークルなりに行ったらいいわけで

京都教会は
そういうよくわかる「同じ」何かでもって一緒にいるんじゃあなくて
キリストでもって一緒にいるから

ばらばらはちゃめちゃでも
一緒にいられるし
いたいのだ。


なんて言っても
まだまだ途上でありまして・・・

だいぶいい感じになってきてはいると思うけど
これは京都という土地柄なのか
まだまだウチワ的なものが残っていて
これが消えるようにすることが
わたしの大きな仕事。


何かのテーマを徹底させようとすると
実はそこで人の集まりはまずかならずウチワになる。

特定の人の声が大きい集まりも
まずかならずウチワになる。


たとえそのテーマや理想がめちゃくちゃよかったり
カリスマがめちゃくちゃ優れているとしても

いや
そうであればあるほど

そこの集まりはきわめて危険な集まりとなる。
それはまさにベルゼブル。

つまり
集まっている人を
そこの集まりに
依存させるのだ。

ウチワは
依存をつくる。


だから
テーマや理想どおりになかなか運ばなくても
リーダーがだらしなくても

ウチワにだけはなっていないという
だから依存のしようがないという

したがって新しく集まりに加わる人でも
何十年も加わっている人となんら違いがなく
無論誰が初めてで誰が何十年もいるということも
まったくわからないようになるという

つまりまさに
後の者は先になり、先の者は後になる
という主イエスの言葉が見事に表現されているという

そういう集まりになったら
ベルゼブルから解放された


ちょっと言ってもいいかなあと思ったりする。

ウチワという依存は

本当にこわい


京都教会はもっとばらばらになるぞ。