きぼう屋

生きているから生きている

和解と癒し その2

2010年09月26日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「和解と癒し その2」

本日も、
世界教会協議会の研究「和解と癒し・21世紀における世界の伝道・宣教論」
が提示するテーマをひとつ紹介します。

「キリストの証人たちは、
緊張と暴力と紛争の只中において、
不均衡のない平和をもたらすために呼び出されている。
教会は和解と平和の追求へと歩みだす」。

さらに、
このテーマは次のような現代世界の中で叫ばれるべきものである
と、この研究は語ります。

「グローバリゼーションと呼ばれる現代社会は、
異質な共同体同士をこれまで以上に近づけると同時に、
しかし互いの違いによる裂け目を大きくした。
このグローバリゼーションと力の不均衡による敵意が
9.11のテロとその後の報復戦争で決定的となった」。

ここで私たち教会が学ぶのは、平和の中身です。

平和は全ての人に行き届くものでなくてはならず、
一部だけが平和という事態は起り得ません。

キリストは不均衡のない平和を創るために躍起になられており、
その神の行為とその行為に参与するキリスト者の行為を
聖書は正義と呼びます。

しかし一部あるいは自分のみが平和であるための行為は
正義ということは出来ず、
そういう平和は虚構でしかありません。

この虚構に注意しつつ、
私たち教会は、「和解と平和の追求へと歩み」出します。

それは一言でいうならば、

他者の十字架をキリスト共に私が背負う!
ということに他なりません。

私たちは、
自分の利益や気分やイメージが整うためではなく、
他者が整うために歩みます。

私たちは、
他者が自分のやりたいことを認めてくれるかどうかという問いを持つ必要がなく、
端的に他者のために自分ができること、すべきことは何かという問いのみを神から頂きます。

さらに、
自分の苦しみや悲しみはキリストが十字架にて背負ってくれているゆえに、
キリスト者は他者の痛みや悲しみをキリストと共に背負います。

この「他者のために」「他者の代わりに」という行為こそ正義です。

この正義こそ
不均衡をなくし、敵意をなくし、世界全体を平和にします。

教会共同体もここで真の平和の奇跡を経験します。



本日は逝去者記念礼拝。
キリストを信じるとき、
実は死者の役割も知ることになります。

それは、
この世では「自分のために」の枠で生きることしかまずできない私たちが、
死者となってからは、
キリストの右に立ち、
「他者のために」歩むことになる、
ということです。

それは、
死者は遺された者たちを生前以上に愛するということです。

その愛は、
生前に良い関係を結べなかった者同志のその関係を、
和解へと導きます。
主は死者と生者の和解を起こします。

そしてこの死者との出会いは、神による癒しの業です。

本日も死者と出会います。