本日は第二コリントの1:12~14を読んでみました。
パウロさんはここでパウロの仲間たちの「誇り」について語ります。
誇りは、人の支えになります。
誇りがアイデンティティとされることは珍しくありません。
そのとき、人は、誇りが汚されると同時に、自らのすべてを否定されたと思うことにもなります。
誇りはまた、自慢になり、また思い上がりにもなりやすいものです。
そのとき、人は、誇りゆえに、他者を受容できなくなったり、他者を傷つけることも多々あります。
日本もそうですが、世界の潮流として、国家の誇りが大切にされている時代です。
それは、国家という存在のアイデンティティを何で保つべきかが、もはやよくわからなくなっているからだと思います。
人は国家間を自由に行き来できるし、経済にしろ物資にしろ、国家間を自由に出入りします。
今住んでいる国家以外では生きていくことができない!という時代でもなく、
人は生きる国家をある程度選択もできます。
生活様式、伝統、慣習、宗教で保つことのできた国家のアイデンティティは、今やそれでは持たず、
誇りを必要としているようです。
そして、誇りで国家を支えると同時に、誇りで、隣国を傷つけます。
誇りはなかなか繊細で扱いのむずかしいものです。
でもパウロの仲間たちは、誇りを大切にします。
その誇りは、「神から受けた純真と誠実」であると語ります。
同時に、「人間の知恵」は誇りではないことも語ります。
誇りの中身が、人間に属するものではなく、神に属するものである限りにおいて、
誇りはとても大切になることがわかります。
しかし、現代でも、神の名を誇りとする国家は、最大国を含めて多々あります。
しかし、そこでは神の名を騙った人間の知恵が誇りとされていることを、私たちは見抜かねばなりません。
そうではなく、神の領域のみが誇りであるというところに立ち続けることが、パウロの仲間たちの使命であるわけです。
そして、誇りは単に精神ではななく、「行動」であることがうかがえます。
「神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは<省略>わたしたちの誇りです。」
神の領域を誇りとする行動、振る舞いであるかどうかが、私たちは問われます。
そのときに、自分のアイデンティティ確保のために誇りが重要な役割を持つゆえに、
誇るゆえに、逆に神を見失い、心では、頭では、神を求めつつも、自分の保守のためにまさに誇り、そのために行動し、それゆえに他者を傷つけたり、関係を壊すことが起こります。
行動、振る舞いが、誇りを大切にするときには問われます。
問われるからこそ、神を誇りとしているか、自らを誇りとしているか、が見えてくるのだろうと思います。
そして、神を誇りとするところからの行動は、みんなが理解できると書かれていきます。
人の知恵、人の誇りは、たくさんの説明が必要です。
哲学的、心理学的、社会学的、政治学的、経済学的な説明が必要です。
だから、理解できないケースがとても多いです。
でも、神を誇りとするところのものは、人の全身全霊に届きます。
筋肉と神経、脳と内臓、心と魂に響き渡ります。
髪の毛の先から足の爪の先までを震わします。
だから、誰でも「これだ!」と理解できます。
神を誇りとする行動との出会いは人を癒し、救います。
和解を起こします。
さらに、パウロの仲間にとってはコリントの仲間が誇りであり、
コリントの仲間にとってはパウロの仲間が誇りであるとまで書かれています。
異質な相手が誇りである!
ここに神の業があります。
異質な者たちが神によって出会い、異質なまま互いを誇りとする。
これはつまり、互いが互いに神による仲間たちであることを尊敬することであり、
神による仲間と神により出会ったということが誇りであるわけです。
すると、
目の前の異質な他者が
私の全身全霊に届き、
筋肉と神経、脳と内臓、心と魂に響き、
髪の毛の先から足の爪の先まで震わせることとなります。
パウロは、このことを「十分に理解してもらいたい」とコリントに人たちに呼びかけ、
また、私たちに呼びかけているのだと思います。
というところで、おしまい。
パウロさんはここでパウロの仲間たちの「誇り」について語ります。
誇りは、人の支えになります。
誇りがアイデンティティとされることは珍しくありません。
そのとき、人は、誇りが汚されると同時に、自らのすべてを否定されたと思うことにもなります。
誇りはまた、自慢になり、また思い上がりにもなりやすいものです。
そのとき、人は、誇りゆえに、他者を受容できなくなったり、他者を傷つけることも多々あります。
日本もそうですが、世界の潮流として、国家の誇りが大切にされている時代です。
それは、国家という存在のアイデンティティを何で保つべきかが、もはやよくわからなくなっているからだと思います。
人は国家間を自由に行き来できるし、経済にしろ物資にしろ、国家間を自由に出入りします。
今住んでいる国家以外では生きていくことができない!という時代でもなく、
人は生きる国家をある程度選択もできます。
生活様式、伝統、慣習、宗教で保つことのできた国家のアイデンティティは、今やそれでは持たず、
誇りを必要としているようです。
そして、誇りで国家を支えると同時に、誇りで、隣国を傷つけます。
誇りはなかなか繊細で扱いのむずかしいものです。
でもパウロの仲間たちは、誇りを大切にします。
その誇りは、「神から受けた純真と誠実」であると語ります。
同時に、「人間の知恵」は誇りではないことも語ります。
誇りの中身が、人間に属するものではなく、神に属するものである限りにおいて、
誇りはとても大切になることがわかります。
しかし、現代でも、神の名を誇りとする国家は、最大国を含めて多々あります。
しかし、そこでは神の名を騙った人間の知恵が誇りとされていることを、私たちは見抜かねばなりません。
そうではなく、神の領域のみが誇りであるというところに立ち続けることが、パウロの仲間たちの使命であるわけです。
そして、誇りは単に精神ではななく、「行動」であることがうかがえます。
「神から受けた純真と誠実によって、神の恵みの下に行動してきました。このことは<省略>わたしたちの誇りです。」
神の領域を誇りとする行動、振る舞いであるかどうかが、私たちは問われます。
そのときに、自分のアイデンティティ確保のために誇りが重要な役割を持つゆえに、
誇るゆえに、逆に神を見失い、心では、頭では、神を求めつつも、自分の保守のためにまさに誇り、そのために行動し、それゆえに他者を傷つけたり、関係を壊すことが起こります。
行動、振る舞いが、誇りを大切にするときには問われます。
問われるからこそ、神を誇りとしているか、自らを誇りとしているか、が見えてくるのだろうと思います。
そして、神を誇りとするところからの行動は、みんなが理解できると書かれていきます。
人の知恵、人の誇りは、たくさんの説明が必要です。
哲学的、心理学的、社会学的、政治学的、経済学的な説明が必要です。
だから、理解できないケースがとても多いです。
でも、神を誇りとするところのものは、人の全身全霊に届きます。
筋肉と神経、脳と内臓、心と魂に響き渡ります。
髪の毛の先から足の爪の先までを震わします。
だから、誰でも「これだ!」と理解できます。
神を誇りとする行動との出会いは人を癒し、救います。
和解を起こします。
さらに、パウロの仲間にとってはコリントの仲間が誇りであり、
コリントの仲間にとってはパウロの仲間が誇りであるとまで書かれています。
異質な相手が誇りである!
ここに神の業があります。
異質な者たちが神によって出会い、異質なまま互いを誇りとする。
これはつまり、互いが互いに神による仲間たちであることを尊敬することであり、
神による仲間と神により出会ったということが誇りであるわけです。
すると、
目の前の異質な他者が
私の全身全霊に届き、
筋肉と神経、脳と内臓、心と魂に響き、
髪の毛の先から足の爪の先まで震わせることとなります。
パウロは、このことを「十分に理解してもらいたい」とコリントに人たちに呼びかけ、
また、私たちに呼びかけているのだと思います。
というところで、おしまい。