きぼう屋

生きているから生きている

人の限界、主の突破、つまり和解の主

2012年10月31日 | 聖書を読んでみました
本日はマタイ1:18~25。
イエス・キリストが生まれる場面。

イエスの父はヨセフ、母はマリア。とまあ有名な話。
しかし、マリアはヨセフの身に覚えのないところでご懐妊。
私だったらどうするか。
その女性の責めると思います。
そして、嫉妬心いっぱいで別れると思います。

ヨセフも別れを決意します。
でも私と違って未練たらたらで、別れる理由を女性にすべて押し付けるという仕方ではありません。

私は悋気に支配されたどうしようもない人間。
でも聖書によるとヨセフは正しい人間。

だからヨセフは、相手のせいで別れるなんて当然考えず、
相手、つまりマリアが幸せになるためにいろいろ考えます。

ひとつは、婚約者以外の子を宿したということがみんなに知られないよう、
その子は婚約者ヨセフが、ヨセフの側で勝手に婚約破棄し、
その後、自由の身のマリアが懐妊したということにして、
うまいことマリアがスキャンダル扱いされないようにしようと考えましたし、
またきっと、本当の父親とマリアが結婚できるようにしようとも考えたのだと思います。

これが、正しい人なわけです。

でも、主の天使があらわれて、離縁をしないよう命令します。

ここで、人の、それも正しい人という、人の中の人の、その限界性と、
それを超える主の働きが見えてきます。

いくら正しい人でも人が他者を傷つけずにできることには限界があります。
そして、どんなに正しい行為とされるものでも、そこでは、他者、ここではマリアとの縁が切れる、ことが起こります。

人は、他者との縁が切れるしかないという状況を、人の限界の中でたびたび迎えます。

しかし、縁を切ることをさせない力も、同時にこの世界にはあるのだ!ということが語られます。
主は、縁を切ることなく、つながったまま、事柄を解決します。
そう!まさに和解の主。

そして、縁を切らずにヨセフとマリアから生まれたのが主イエス。

和解から生まれた主という出来事は、まさにインマヌエル。
神が私たちと共にいます!から、ひとりではありません!という神の縁を切りません宣言。
同時に、その主は民を罪から救うと書かれます。
この罪、そう、人間の限界性、つまり、縁を切らざるを得ないということ。
でも、その罪から救われる民は、縁を切らずに和解をいただくわけで、
それこそキリスト、救いなわけです。

さて、最後に、マリアが聖霊でもって懐妊したということですが、
これもまた、たとえば人と人との関係では性行為を通して懐妊するわけですが、
となると、人と人は、何かを生み出すためには、何かの条件を必要とするわけですが、

人と聖霊の関係では、条件なしで、まさに生み出される、創造されるという出来事が起こるということかなあと思ったりします。

というところで、本日はおしまい。


久しぶりの更新 系図からの救い

2012年10月30日 | 聖書を読んでみました
とても久しぶりの更新。
聖書を読んでいこうと思いました。
ちょっと現在しんどい時期を過ごしており、
ほかの本はなかなか読めないのですが、
不思議と聖書だけは読むことができるという経験をしていますもので。

で、新約聖書の最初から。

マタイによる福音書の初っ端は主イエスの誕生までの系図。
この系図から与えられる救いって何だろう?

この系図は、主イエスがいいところの家系であるということを当然言っていると思います。
現代でも、いいところの家系というのは信頼されるし、
結婚時にお相手の家系を興信所で調べるケースも多いようですし、
そもそもどの家系に生まれるかで経済や教育の状態も決まりますし、
就職も家系がいいと縁故で苦労なし。

となると、ほぼすべての人において、主イエスがいい家系であるということは、
救いどころか、イヤミにすら思えることだなあ、と思ったりします。

しかし、そのいい家系の中で、主イエスは、その時代に最も見下されていた大工の息子として登場してきます。

なるほど、主イエスは、いい家系でありながらも、どこかで縁を切られて、社会の最底辺に落ちた方であることが読み取れます。

ならば、もう家系なんか役に立たないから紹介などしなくてもいいのに、とも思います。

しかし、この家系にはもう一つ大きな意味が隠れていることは間違いないようです。
それは、救い主が生まれるとされた家系です。

で、その救い主が主イエスです。

で、その救い主は、社会の最底辺に落ちた(落ちざるを得なかった)方であり、
その救い主は、縁を切られた方であります。

家系というのは、だいたい、信用させるために用いるのでしょうが、
マタイ福音書では、つまり、
社会の最底辺で虐げられている者が、救い主としてお生まれになった!
ということに最大限の信用を付与しているのだと思いました。

また、この家系には岩波聖書の注によるとなかなか面白い方々が現れます。
娼婦のふりしてユダに近づいて子どもをもうけたタマルさん。
売春婦のラハブさん。
ダビデと不倫をしたウリヤの妻さん。
出会ったら敵とみなされた異教徒出身のルツさん。

みんな、主イエスの誕生に欠かせない出産を経験されています。

当時は、親権がすべて男性にあり、女性は産む存在として軽視されていたという差別的事実もあり、
女性なら誰でもいい、という解釈もできなくもないですが、
私は、主イエスの誕生までの歴史において、
彼女たちがかかわっていることが、
救いにとって重要だと思うわけです。

最も社会から嫌われ、虐げられることになる倫理違反をした者も、
主イエスという救い主の誕生により、
共に
思いっきり
救われるわけだろうと思います。

そもそも
彼女たちの心を思うならば、
おそらくぽっかりと空いた穴があり、
根源的なさみしさをかかえ、
圧倒的孤独感に支配され、
生きていることが苦しい方たちだったのだろうと思います。

しかし、彼女たちがかかわった事柄抜きには、歴史は全く成立しないわけです。
救い主誕生へとつながらないわけです。

どんな苦難にあっても
どんな困窮にあっても
どんな見捨てにあっても
どんなに生きるのがつらくても

主が生まれることにより、
主がかかわることにより、

すべての者は、救われる!

同時に、すべての者が救い主のはたらきのために不可欠である!!

というのが、マタイ福音書の最初の宣言であり、
そして、その後に、救いの中身が描かれていくのだろう、

と思いました。

久々のブログ更新、おしまい。

人の子が来る

2012年07月27日 | 教会のこと
遅くなりましたが、今週の週報巻頭エッセイです。

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「人の子が来る」

「その苦難の日々の後、たちまち
太陽は暗くなり、
月は光を放たず、
星は空から落ち、
天体は揺り動かされる。
そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める(マタイ24:29~31)。」

この有名な終末の神の業は、いつか将来に起こる出来事なのだろうか。
その時が来るまでは私たちには何の影響も与えないものなのだろうか。
この業は全宇宙の終末という超壮大な出来事のことを語っているのだろうか。
現在の私たちの身近な出来事として現れることとしては描かれていないのだろうか。

終末。
この出来事の前に私は言葉を失う。
苦難の日々の後に、さらにこれまで維持されていた全てが崩壊する。
苦難の後に即解放ではなく、さらに輪をかけて、その苦難の限界を超えて、私を維持しているすべてが崩壊するということが起こされていく。
するとそこで、人の子を私たちは見るとのことだ。
しかし人の子を喜びいっぱいに迎えるのではなく、悲しみのなかで迎える。
救い主を目の前にしても喜びではなく悲しみが染み出す状況が起こされていく。
人の子と私たちとの出会いの際に起こる私たちの状況がこんなにもつらく暗いものであることを、
私たちは私たち自身の想像力や経験からは了承することができないだろう。
あまりにもしんどすぎる。
しかし、この人間の解放の感覚を超えたところに、
人の子による本当の解放、救いがあることを、実はこんなに有名な終末の記事はあっさりと教える。

地震、津波被害、原発被害、経済最優先システムによる被害を被っているまさに今のこの国の多く人は、
実に苦難の上に苦難を覚え、救い主が現れてもなお、悲しむしかない状況にあるのかもしれない。
それは例えば礼拝しても、祈っても、讃美しても、悲しみがあふれるばかりで、突破口が見つからないという状況かもしれない。

しかし、にもかかわらず、人の子が来る!と聖書は語る。
私は、まさに今、ここに、人の子が来ると語られていると信じる。

そして人の子による(私たちの讃美を超えた)ラッパの讃美が天使たちを遣わす。
天使たちは私たちのために働く。
それは、四方から交わりとして何度でも呼び集めるという働きとのことだ。

日常の状況が苦しすぎるゆえに、礼拝も、祈りも、讃美も、慰めにならない出来事がある。
その時、そこで慰められない者の信仰がないというわけではなく、神がわからないというわけでも絶対にない。

その時は、端的に人の子が来る時なのだ。
なにがなんでも人の子が来る。
私たちのために人の子が来る。
これは将来の話ではなく、まさに、いま、ここに起こることなのである。

さばきの神?

2012年07月17日 | 教会のこと
今週の日本バプテスト京都教会の週報巻頭エッセイです。

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「さばきの神?」

ほぼ毎週の礼拝説教時に嘆かせていただいていますが、
サムエル記から現代の私たちへのメッセージを取次ぐことは、私の限界をとっくに超えていることでもあります。
毎週毎週、主に祈りつつ、取次ぐことのできない罪を赦していただくことを信じつつ、取り次げずして取り次ぐという業を担わせていただいております。

私たち京都教会は、「聖書教育」誌の聖書箇所を毎週の礼拝で分かち合いますが、
実は、クリスマスまではずっと旧約聖書を分かち合うこととなります。
それも、難しい書簡が続きます。

しかし、そんな中でも、旧約聖書に毎週触れる機会が与えられる中で、
私たちの信じる神さまが何者であるのか、ということが少しこれまでよりも深く与えられているかもしれないとも感じています。

キーワードは「さばき」です。
私たち一人一人を、私たちの世界を、しっかりさばいて下さる神さまが登場します。

ならば、さばかれないために、私たち人間は、清く正しく生きることが出来るのか!
というと、そういうわけにもいきません。
神さまが、私たちを、神さまにさばかれる存在、罪人とされていることをも、知ることになります。
神さまの働きを委託された者たちが、しかし神さまから贈られた悪霊により、神の望まない行為を行うというのが、この間の聖書の最大のテーマです。
新約聖書風に言うならば、私たち人間は人間というよりも「罪人」であるということです。
だからといって、罪を犯すしかない罪人だから罪を犯しても許可されるわけでもなく、
神が悪霊を贈ったのだから悪霊により、悪を為しても許可されるわけもなく、
罪を犯し悪を為すことから逃れられない私たち人間は、
しかしそれゆえに、神にしっかりとさばかれ、
そのさばきの場において、神と出会い、すべてが神によることを圧巻的事件として受け、
そこですべてを神に委ねることが、はじめて起こされていきます。

サムエル記を通して私たちは、
聖く生きる人と悪く生きる人がいるのではなく、
悪く生きる人(すべての人)が主と出会う中で、主の聖さと出会い、それで生きることを知るに至っていると思います。

そして私たちはサムエル記と同時に新約聖書からメッセージを戴くことができます。
新約聖書において、主イエス・キリストは、
悪を為すことしかできない私たち罪人を救うために、
そのすべてを身代わりに背負い、十字架で殺されました。
殺したのは私たち人間です。私たちは受肉された神であり人である主イエスを、自分の代わりに殺しました。

しかし、主はよみがえりました。
もはや私たちは、受肉された主を殺すように、復活の主を殺すことができません。
受肉された主を私たちが殺したのとは逆に、
今度は復活の主が、私たちを死に導きます。
そして死から復活の命へとさらに導きます。
復活の主は、そのようにして、徹底的に新しい命と新しい世界を創造します。
人間はそこでキリストの体とされ、世界は神の国とされます。

だから、私たちはバプテスマを受けます。
死んでよみがえります。

そういう意味では、復活の主も、またさばき主です。

さばきの神は、即、救いの神、赦しの神です。

ぜひこの神と共に生きていきましょう。

起こる!

2012年05月29日 | 教会のこと
今週の日本バプテスト京都教会の週報巻頭エッセイです。

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「起こる!」

金環日食でもちきりだった先週。
私は絶対にしてはいけないという警告をあちこちから聞きつつも、肉眼で楽しんでしまいましたが、みなさんはいかがでしたでしょうか。
空にリングが浮かんだときの感動はかなりのものでした。
でも私はそれ以上に、日食時に暗くなったこと、気温がさがったこと、風が強くなったことに驚きました。
また少しこわくもなりました。
恐らくリングの美しさは事前にイメージできていたのに対し、体に直接覚える光や気温や風は事前の想像を超えていたのだろうと思います。

数十年、数百年に一度起こる金環日食について、日時等をこれほどまでに正確に予測できる現在の科学技術のすごみを覚えたと同時に、
しかし、日食という事が起こったときに覚える衝撃は、予想を超えたことに、私は感動したわけです。

私たちは日々起こすことを事前に計画します。
起こすことをイメージトレーニングする重要性も語られます。
それはできるだけ予想がどおりに生きることを人が無意識に求めているということかも知れません。
逆に言うと、予想がはずれることが、計画どおりに行かないことが、私たちにとってこわいことを表明していることにもなります。

そしてそのような私たちの習性は、事を起こすのが私たち自身であるという前提によるものであるに違いありません。

でも事を起こすのは神様です。私たちではありません。
今回の金環日食は、もしかしたら神を信じていない人でも創造の神を想起したような出来事でもあるかもしれません。
少なくとも全ての人が、人が日食を起こすことができないゆえの感動を覚えたと思います。

繰り返しますが、日食の日時を含めて、あそこまで予想できます。
でも、体感できた事は予想を超えていました。

そして、日々の一つ一つの出来事も、
それは私たちが計画して起こしていると思っている出来事でも、
実は神が起こしています。
そして神が起こすからには、私たちが綿密に計画し起こしていると思っている事でも、
神による私たちの予想を超えた、こわさを覚える出来事があらわれるだろうと思います。
人は常識的にはそのこわさを避けますが、しかし神を信じる者には、そのこわさが救いとなり希望となります。

本日はペンテコステです。聖霊が働き始めた日です。
聖霊は事を起こしました。それにより敵対していた民族がつながりました。
使徒言行録の2章の記事です。
その際、聖霊は突風として、また炎としてやってきました。
私たちがこわくなる出来事としてやってきたのです。
私たちの常識では避けるべきものが聖霊だったのです。
そう、理解を超えた事、腑に落ちない事、ゆえにこわくなりイライラすること、
そのようなものとして聖霊は働き、その働きにより、神に創られた者たちはひとつとされるわけです。

私たちはこの聖霊の働きを強く信じます。

また聖書は、神のことを出来事としてあらわします。
私たちは神を存在として認識することが多いです。
それもその通りなのですが、存在は私たちがイメージしやすいものです。
それに比べ、起こる事としての神は、イメージしづらいものです。
でも、神さまは、私たちの予想を超えた出来事として、予想を超えた結果として、そういう事を起こされる方として、
私たちの前に、とりわけ教会にあらわれることでしょう。

起こる!
予想を超えて起こる!
予想の反対の出来事としても起こる!
人の予想など関係なく救い出し赦し生かすために起こる!
これぞ神であり聖霊なのです。


無条件の交わり

2012年05月21日 | 教会のこと
今週の週報巻頭エッセイです。

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「無条件の交わり」

「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる(マタイ5:45)」。
当教会がホームレス支援炊き出しを開始して丸12年。(最初はNPOでなく教会内の委員会でした)。
当初は炊き出し参加者全員が路上生活者でした。
しかし、現在は自立支援も進み、生活保護でのアパート生活者も多く、実は炊き出しに来られる方の半分は路上生活者ではありません。

そうなると、炊き出し参加条件が、参加者の間で議論もされます。
「ホームレス支援」なので、路上で苦労している人のための炊き出しであり、生活保護受給者は来るべきでない、という意見がよく聞かれます。

ホームレス支援活動は当教会関係者を中心に、全国の方からの献金で成り立っています。
献金される方も楽な生活をされているわけではありません。
けれど命にかかわる路上生活をせざるを得ない方を熱く覚えつつ献げて下さっていると思います。
となると、生活保護者の食事にも献金が用いられることは、献金者の思いとも、多少ずれるのかもしれません。

しかし、この5年ほど、炊き出し参加者の中の生活保護受給者の割合が増え始め、
また、年金受給者、留学生を含む苦学生、旅人の参加もあり、
炊き出しの意味の変化を実感します。

そして、実は炊き出しは、より聖書の目指すものへ近づいているとも思わされています。
つまり、参加資格、条件は全くなく、誰もが参加できるものへなってきていると思うのです。

炊き出しは確かに食事を提供する場です。
しかし、主イエスが、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる(マタイ4:4)」と語られ、
有名な五千人の共食でもこの事柄が起こされたことを知るとき、
炊き出しでも同じことが起こされていると認識することはできないか、と思っています。
主イエスは、炊き出しにて、パンの分かち合いと同時に、神の言葉の分かち合いを起こしているのではないだろうか、と。
それは、路上生活者も、生活保護受給者も、年金生活者も、学生も、会社員も、主婦も、子どもも、ボランティアも、
食事を共にし、顔を合わせ、声をかけあう事実が、キリストの体という神の言葉で生きることだと思うのです。

礼拝もきっと同じです。
どんな境遇の人も神により集い、キリストの体とされ、誰一人排除されず、悪人も正しくない人も交わりに加わり、共に救いに与ります。

またこの交わりからは特徴が発見されます。
炊き出しも礼拝も、最初は自分が空腹や苦痛から解放されることを目的としながらも、
集い続ける中で、
他者の空腹や苦痛にキリストと共に寄り添い、他者を愛し、他者のために祈り、他者と共に生きることまで起こされるという特徴です。
礼拝も炊き出しも、そのようになっていることを主に感謝しつつ。
さらにそうなるよう主に祈り期待しつつ。

士師記はむずかしいですが・・・

2012年05月14日 | 教会のこと
今週の週報巻頭エッセイです。
ひさしぶりにアップです。
この間(一ヶ月ほど)の週報巻頭エッセイは極めて教会内部向けだったのでアップできず。

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「士師記はむずかしいですが」

今、私たちは、礼拝と教会学校にて士師記からのメッセージを分かち合っています。
でもとてもむずかしいです。
それは、戦争が神の名によって肯定されていく記事があるからだと思います。

十戒の「殺すなかれ」も、
原語のヘブライ語からすると、
自分の属する共同体内部の人を殺すな、という命令ではあっても、
共同体外部の人を殺すな、までは言っていないという解釈が生まれてしまいます。

となると、
まず、旧約聖書の時代の共同体外部の人とは、どういう者として認識されていたのか、
を、考えてみたいと思います。
結論から言うと、
おそらく、今で言うところの宇宙人のように、共同体外部の人を認識していたのではないかと思います。
外部の人については、客観的な情報もなく、もちろん出会うことも対話することもなく、
ただただこちら側の一方的な思い(込み)のみあっただろうと思います。
また、今の時代の映画などで宇宙人が地球人を攻撃する存在として描かれるように、
当時も自分たちの命を狙う者として共同体外部の人が認識されていたのではないでしょうか。
そして、この背景の中で、外部の者から自分たちを守る神が語られたのだろうと思います。

現在、この地に住む私たちは、
自分のかかわる共同体や国以外の人を、自分の命を常に狙う存在とは認識しないだろうと思います。
地球にはそういう存在はいないと普通に考えていると思います。

でも逆にこういう環境に生きる私たちが問われるのは、
共同体を失ってしまうことがあること、
共同体への責任感が薄くなってしまうこと、
共同体(特に国家)が、自分を守る最大権力として理解されるに留まること、
などが、起こっているということではないでしょうか。

すると、共同体は個人を守るための道具にすぎなくなってきます。
でもそうなると、
私たちにとって大事なことが、
旧約の時代では共同体全体を守ることであったものが、自分自身を守ることへと変化しているかもしれません。

本当は、共同体全体を守ることから、それを越えて全宇宙の命を守ることへの変化を願うところでもありますが、
逆にもっと狭くなって、自分自身のみが守る対象となっている気もします。

そうすると、もしかしたら旧約時代より、現在は、聖書の語る世界からは、遠くなっているかもしれません。
当時よりもはるかに破壊的な戦争が起こったり、隣の住人の状況を知らないということが起こるのは、そういうことかも知れません。

だから、女性士師デボラが、個々人を、裁くことにおいて救いに導いたことは重要です。
私たちは、神に自らの罪を見出していただき、それを丁寧に裁かれることで、
他者や他共同体の者との和解、共生に目覚めるのでしょう。

主の恵みを数えることと、罪を数えることは、実は同じ神からの救いの出来事であるわけです。
そしてひとつひとつ数えられる中で、私たちは悔い改め、十字架をいただき、復活の命として救われます。

復活の主

2012年04月10日 | 教会のこと
今週の週報巻頭エッセイです。

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「復活の主」

キリストの復活を覚えるイースターを共に祝うことがゆるされ感謝です。
私は「復活」を信じます。
「復活」は回復ではなく、まさに復活です。
キリストは死より復活されました。死に勝利しました。
そこでは、死のみならず、死に向かう方向を持つ諸力にも勝利しました。

しかし勝利した今、なにゆえに死および死に向かう方向を持つ諸力が存在するのでしょう?
私たちは素朴に疑問を持つとも思います。
私たちは、何かに勝つというとき、
相手が負ける、さらにはトーナメント戦の感覚でいうならば、相手が消えると考えることができます。
けれども、聖書が勝利を語るとき、
それは勝利した相手をすべて引き受けることができたということであり、
また相手を愛することができたということであるに違いありません。

死に勝利し復活したキリスト。
彼は、死を無きものとしたのではなく、
死を豊かに受容する中で、死を越える新しい存在となられた、と考えることはできないでしょうか。
同時に死に向かう諸力に関しても、
十戒で言うならば、殺し、姦淫、盗み、偽証、むさぼりなどに関しても、
まるでそれらがなかったかのように、全てリセットされて、新しく復活の世界が広がるというのではなく、
それらが間違いなくある現実の中で、その罪を隠すことなく、引き受けることができる世界が、
復活の新しい世界ではないでしょうか。

67年前までの戦争を忘れるのではなく、その罪責と苦痛を引き受け、覚え、具体的に重く感じ取り、
その苦痛を味わう中で、復活の新しい命を生きる、
あるいは、復活の命に生きるゆえに、
その命に与っていなければ苦しくて忘れることしか出来ない事柄であっても、
その苦痛を引き受けることができる、ということが勝利ではないでしょうか。

個々それぞれの人生も、
罪や失敗をすっきり忘れることで次の歩みをはじめるのではなく、
キリストの復活により私たちにも復活の命が与えれたゆえに、
罪や失敗を引き受けつつ、
しかしその十字架は軽いと主に宣言されつつ、
歩むことが出来るのではないでしょうか。

復活の命に与ることがなければ、
私たちは自らの罪や失敗、弱さを隠したり忘れることしか出来ず、
ゆえにそれこそ復活の命、歩み、世界を失い、全て失うことにもなるかもしれません。

キリストは復活されました。
だからペテロもザアカイも放蕩息子も姦淫の女性も金持ちの青年も、
それまでの罪深い人生をしっかり悔い、忘れず、
それを越えて、新しく復活したはずなのであります。

キリストが復活されたから、
失敗してもやり直しができます。
罪は赦されます。
救われます。
明日があります。
希望に満ちています。
光が導きます。

復活の主キリストを信じてまいりたいと願います。

今度の日曜日はイースター

2012年04月05日 | 教会のこと
今度の日曜日、4月8日はイースターです。

日本バプテスト京都教会でも、イースターをみんなで祝います。


午前10:30から、礼拝があります。

聖歌隊賛美、信仰告白とバプテスマ式、成人祝福式など、もりだくさんの礼拝です。


午後12:30から、愛餐会です。みんなで立食パーティです。

子どもたちはチョコレート・ハンティングがあります。


午後2:00から、教会バンドイースターコンサートがあります。


いずれも入場無料。
どなたもぜひともご遠慮なくどうぞ。

心よりお待ちしております。

光に生きる

2012年03月31日 | 教会のこと
今週(といってもあと一日ですが)の週報巻頭エッセイです。

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「光に生きる」

聖書から学ぶならば、私たちは光を受け、光を見、光を目指し、光となり、歩むこととなる。
徹底的に光にこだわる人生となる。
聖書は、神が光であり、キリストが光であり、さらに私たちもまた光であることを語りきる。

逆に、闇を好み、闇に留まり、闇に歩むことを聖書は禁じる。

光は力を持つ。
心や体がしんどいとき、夜中に不安であったとしても、
朝日が昇るとそれが解消される経験を恐らく多くの方がされているだろう。
単純に暗闇を歩いているときに、月の明かりが精神を安定させる経験もあるのではないか。
寒いときに日光に当たりホッとした経験もあるだろう。
真っ暗な部屋に帰ってきたときに、電気のスイッチをつけて蛍光灯が点灯してもホッとするものだ。

事柄の見方、考え方はいかがだろうか。
直面している出来事を光を通して考えるだろうか。
それとも、その出来事の闇の部分ばかりにこだわるだろうか。
聖書は、私たちが光を見つめ目指しつつ事柄を把握し進めることを強く要求する。
逆に闇の部分の除去にこだわるとき、それは呪いとなり、事柄がますます神から離れることをも聖書は教える。
私たちは「闇は光に勝たなかった」という神の宣言に立ちつつ常に具体的に思考し選択せねばならない。
そして、それが主ゆえにできるのだ。

とりわけ聖書は、光について「異邦人のための光」と語る。
つまり光は、私と最も質の異なる者、
つまり単に付き合うことをも含めて、最も関係することの難しい者に対して、
光が備えられていることを語る。
そう、光を受ける私たちは、常に敵と認識する他者まで含めて、
どんどん交わりが広がることを、光ゆえに知ることができるのだ。

私たちはそれぞれ、様々な場面での様々な困窮を抱えつつ歩んでいる。
困窮は時に自らの歩みが暗闇に完全に閉ざされていると私たちに思わせ、閉塞感に苦しむことへと導きもする。
しかし「闇は光に勝たなかった」。
私たちは必ず光に救われる。光で生きる。閉塞感から解放される。

単純にどんなに暗闇でも、光は必ず見える。
暗いほどに光はなお強調されもする。
だから私たちは光を見失うことがない。
光が必ず私たちの目に、心に、魂に飛び込んでくる。

また聖書は私たちが闇を好み、闇を正義と思うことすらあることをも語る。
その時は、パウロが浴びたような強烈な光が、私たちが気付かずに信奉している闇を打ち壊してくれる。
私たちは光を受け、闇から光へと復活する。
「世の光」として、「光の子」として復活する。

私たちは、本当に光に生きることがゆるされており、そうするよう神より招かれており、そうすべきであり、それができるのだ。

教会生活

2012年03月20日 | 教会のこと
日本バプテスト京都教会の今週の週報巻頭エッセイです。

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「教会生活」

私は「教会生活」という言葉が好きです。キリスト教会でよく用いられる言葉です。
同時に「信仰生活」という言葉もあります。これはキリスト教会ではもちろん、きっと全ての宗教で用いられると思います。

でも、キリスト教会は、
神によって不思議と出会った者たちが、常にさらに出会わされていくことを知りつつ、
決して閉じることなく、霊により自らが開かれて、
具体的に出会いの生活をする現場であるゆえに、
つまり単に内面や心の状態だけに作用する場ではないゆえに、
私は、その具体性を表す「教会生活」という言葉が好きです。

昨日土曜日の礼拝準備、会堂清掃には、男性5名、女性7名が参加されました。
本日の礼拝に集われるだろう、そしてそこでさらに出会うであろう仲間を覚えつつ、掃除し、準備をしました。
そして共に昼食を囲みました。食後のデザートとコーヒーも戴きました。
この場所に共に主イエスがいておられることをそれこそ感動しつつ実感できたと思いました。

一昨日金曜日の市役所前炊き出しにおける教会での事前準備には、男性6名、女性8名が参加されました。
共に夕食を囲み、市役所で提供する雑炊を準備し、たくさんおしゃべりし、市役所へ向かいました。
とてもあったかく、主イエスの温もりを実感できたと思いました。

火曜日、水曜日、木曜日は、それぞれ祈祷会が持たれました。
火曜日と木曜日は食卓も囲みました。

月曜日や土曜日のホームレス支援奉仕もいつも多くの方が参加されます。
いずれもとてもあったかいです。

聖書は、救いがこのような生活のただ中にあることを語ります。
生前の主イエスは当時の生活のただ中で人々を救われました。
また救いの場面では宴会をはじめ食事を囲むケースが多いことは偶然ではありません。
そして「実に神の国はあなたがたの間にあるのだ(ルカ17:21)」と主イエスは宣言されます。
人々が共に生活するその間に神の国が現われるのです。

私たちは、いよいよ増改築に向けて本格的に歩みだします。
増改築の本質は、
実は、単に礼拝のみならず、いろんな教会生活を繰り返す中で、
その神の国の感触が体に染み付いたときに発見されるのだろうと思います。

会堂を清掃するとき、
食事を囲むとき、
教会学校で交わるとき、
会議をするとき、
子どもと遊ぶとき、
ちょっと疲れて教会のどこかで休むとき、などなど、
そういうときに主が伴われる会堂の本質が発見され、イメージが膨らむはずです。
必要とされるスペースの広さ、色、肌触り、におい、音、などなどが、見えてくるだろうと思います。
そして何よりも同じ空間に十字架を背負いつつおられる主イエスが生々しく見えてくるはずです。

一般の家庭でも、
外に働きに出る者に比べ、常に家で家族と交わり、家事をしている者が、
より鮮明に家の本質を体全体でつかみ、イメージを広げると思います。

「教会生活」の充実は、実は救いの充実であり、増改築の充実となる!
と、私は思うのです。

いかがでしょうか。


311を生きる教会

2012年03月12日 | 教会のこと
今週の日本バプテスト京都教会週報巻頭エッセイです。

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「311を生きる教会」

東日本大震災から一年。本日の礼拝はまさに礼拝であることが求められる。
同時に主がいつもに増して特別に礼拝を礼拝とするのではないかとも期待する。

今なお震災における十字架があふれる。死、苦難、悲痛、不安、叫びがある。

この十字架は被災地だけにあるのではない。京都の地にいる私たちの間にもある。
地震、津波、原発事故の十字架はすべての者が負っているはずのものである。
私たち教会、信仰者は昨年の3.11から今に至るまで、
「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか(ガラテヤ3:1)」
という事実と向かい合っている。

否、
向かい合うべきでありつつ、十字架の主の姿を見ぬふりをしている自分たちをも発見する。
その時に私たちは、
十字架の立つ被災地と、それの立たない他の地域に区分することで、
被災地にいない私たち自身に安心感を植える。

ガラテヤ書でパウロはそのような区分のことを律法と呼んだのだろう。
十字架を負う者とそうでない私たちという区分こそ律法である。
そして私たちは自らが十字架を負わないために律法を守ることに懸命になる。
しかしそのような私たちに向かってパウロは、
「律法の実行に頼る者は誰でも、呪われています(3:9)」と語る。
呪いとは、一部の者に十字架を、責任を、苦難を押し付けることなのだ。

続けてパウロは、霊を信仰により受け、祝福が全体に及ぶ道を示す。
まさに全体である。
パウロはユダヤ人とギリシア(異邦)人、奴隷の者と自由な者、男と女という区分を否定し、
「あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つ(3:28)」と語る。

被災地とそれ以外の地域という区分はない。
私たちは目の前で十字架につけられたキリスト・イエスにおいて一つなのだ。
逆に言うならば、
十字架のキリストにおいて私たちは3.11の十字架を背負う者とされるのだ。
この十字架を私たちにつなげるものこそが霊なのだ。

一年が経ち、私たちはこの間に多くの律法が生まれていることを知る。

震災において困窮にある他者との出会い、つながりのない中で、なんらかの結論が語られるならば、
それらは全て律法となる。
苦痛あふれる顔を正面から見ることなしに震災に関する総括めいた言説が起こるならば、
それらは全て律法となる。

その中で私たち信仰者はまさに信仰を選ぶ。
それは二つのものを一つとする霊の働きに委ねることだ。
霊は必ず私たちを現場の十字架とつなげる。
その前では今なお沈黙せざるを得ない十字架とつなげる。

十字架抜きの結論を恵みと勘違いすることに注意したい。これは律法であり呪いである。

私たち教会は信仰者の群れとして、
十字架を担いあう祝福へと導かれるままに導かれたい。
その道は始まったばかり。

キリストが私たちを「律法の呪いから贖い出して下さった(3:13)」。


イエスさまのいる風景

2012年03月06日 | 教会のこと
今週の日本バプテスト京都教会週報巻頭エッセイです。

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「イエスさまのいる風景」

私たちバプテストが大切にしている総会を、先週無事終えることがゆるされ、主とみなさまに感謝いたします。
そしてみんなで決めることのゆるされた事柄に、主と共に挑戦できればと願います。
また、来年度からの新執事として、TさんとMさんを私たち総会は選びました。
お二人のために続けてみんなでお祈りをして参りたいと思います。

先週私たちは、イエスさまが子ロバにのりエルサレムへ入場される場面を分かち合いました。
そして礼拝後、Sさんが私にこの場面から想像できることを語ってくださいました。
私はそれを聞いて曇りが晴れて、この場面の風景が豊かに見えてきたという経験をしました。
ですので、この場所でもぜひ分かち合わせていただきたいと思います。

Sさんは、子ロバに大人であるイエスさまが乗り、オリーブ山の下り坂を進む場面の画を説明してくださいました。

もともと入場といえば立派な馬にまたがるのが常識の中で、
本来あまりに小さいために大人が乗るはずのない子ロバにイエスさまがまたがられたならば、
そのイエスさまを乗せた子ロバは、
しりもちを何度もつきながら、どちらかというとずるずるすべるように下っていき、
イエスさまも、子ロバにまたがりながらも地面に着く足で、
逆に子ロバが転がるのを踏ん張って支えながら、
必死こいて坂道を下っていったのではないか、というものです。

日常生活にロバがいる人たちは、
きっとこの物語から、
そのような子ロバとイエスさまの吉本新喜劇のような風景を想像するに違いない!
と、私は思わされました。

そして、この常識からはかけ離れたコントのような風景こそが、
イエスさまのいる風景であり、
それはユーモアあふれる風景だったのだろうと思わされました。

イエスさまのいる風景はユーモアにあふれている!
とこのことを、聖書を読むときの前提にしていいだろうと私は思います。
先週の場面で言うならば、
「主がご入用なのです」と私たちが主に用いられるとき、
それは私たちが完璧に主のために奉仕するというよりは、
主が踏ん張って私たちを支えながらも、しかし私たちに期待し、
さらに共にドタバタ劇をこなしてくださるという、
なんとも楽しい出来事が起こるわけです。
 
私たちのイエスさまと共なる日常生活でも、
そこでは人間が思うところの真面目さで事柄が起こされるのではなく、
まるでコントのような楽しさの中でイエスさまが働かれるに違いありません。

もしかしたら、先週のような総会も、
さらには礼拝も、
ドタバタコントのような場面を起こしつつイエスさまが共にいてくださるのかも知れません。

政治、宗教、教育、勤労など、
人間感覚では真面目さが常識的に求められるところで、
イエスさまも本当にそれを望まれておられるのか?。
私は単純に疑問を抱きました。

もっとすべてがユーモラスであるままにユーモラスである風景が起こされはしないかなあ?と。

しかもこういう風景に生きることはこの国では関西が最も得意するところかも知れません(笑。

いかがでしょうか。

教会の総会

2012年02月26日 | 教会のこと
今週の週報巻頭エッセイです。

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「教会の総会」

いよいよ本日午後には私たちバプテスト教会が大切にしている総会が開催されます。
バプテストは歴史的に近代世界の個人を尊重する考え方に大きな影響を与えてきました。
それは総会による教会や地域の運営へのこだわりから生まれたとも言えます。

総会は多数の意見をもって事柄を決定します。
しかし不思議と聖書には多数の意見による決定と運営という記事がありません。
逆にまずすべては個人か少数者の意見を持って事柄が決定されていきます。

となると、バプテスト教会をはじめ多数決を採用する教会は聖書に反しているということでしょうか。

私は、そうではなく、現在の総会による決定と聖書の少数者による決定の本質は同じである、と考えています。
それはどちらも、実は少数者の意見が尊重されるというところにあります。

聖書では、神に召された特別な少数の人たちの意見が採用されます。
そしてその特別な人たちは神と対面する(厳しい)責任を負います。

しかし私たちバプテストは、聖書の読む中でもうひとつ解釈をさせていただいています。
それは、神に召された特別な人は限られた少数というのではなく、みんなが特別であるという解釈です。
そして全員が(厳しい)神との対面をすることを選び取りました。

だからみんなが特別でみんなが祈りみんなが意見を与えられることを信じ、望み、大切にします。
これが個人の尊重の中心点です。

そして運営上総会において同じ意見の者が多かったものを採用します。
しかしここで大事なのは、
多数であった意見が意志として採用されるということではなく、
すべての意見が総会参加者の意志となりつつ、
でも、採用順序は、多数のものからとなるということだと思います。
つまり、多数意見で歩んだときに行き詰ったならば、
自由にやわらかく少数意見で歩みなおすことができるというものだと思います。

同時に少数者のみが神と対面するのではなく、
みんなが対面することを選ぶバプテスト教会は、
みんなが神と対面するなかで祈り神のみこころを求めたにもかかわらず、
それらが一致しない経験を重ねる中で、
人が神のみこころを知ることの限界性、みこころを知ることができないという罪人性を学びます。

だからバプテストは、自分の意見や思いが実は誤りの多いものであり、欠けていることをよく知ることとなります。
でも、その欠けを主イエスが補ってくださることを信じ祈りつつ、覚悟を決めて意見を言わせていただくわけです。

ボンヘッファーは「人の行為は悪と悪との選択(「キリスト教倫理」)と言いました。
私たちは各々思いを持ち意見を表しますが、
しかしそれは私たちが人である以上悪と悪との選択であることを知りつつ表明します。
これが主の赦しなしには起こりえない総会の大きな恵みではないでしょうか。

主に赦され、主に補われつつ、ご一緒に総会を頂いてまいりましょう。

地域と教会

2012年02月21日 | 教会のこと
今週の日本バプテスト京都教会週報巻頭エッセイです。

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「地域と教会」


「地域に立つ教会」という標語がほぼ全ての教会で叫ばれるようになって久しいわけですが、
今一度この標語の中身を分かち合いたいと願います。

教会にとって「地域」とは何でしょう?

私が経験してきたキリスト教界の議論から、
教会の持つ教義や生活原理を教える対象、
あるいは、単純に教会活動のために必要な人や献金の在り処が「地域」と呼ばれているケースも、少なからずあるようです。

でも私は
そのように教会のために地域があるという方向ではなく、
地域のために、地域に奉仕する教会があるという方向で
「地域」を知る必要があると考えます。

教会は、地域に転がる困窮は何か、今日的社会課題は何か、つまり地域の負う十字架は何か、について真剣に考え、
先立ってその十字架を背負われる主イエスと共に、
神の愛を受けつつ、
地域の十字架を背負うことが教会の使命であると思うのです。

20世紀最大の神学者と言われるカール・バルトは言います。
「例えば『イエスと宗教改革』、『イエスと伝道』というように関連づけることに私たち教会が慣れ親しんでいるのと同じ意味で、
私たち教会は今や『イエスと社会運動』と言うのです」。

そして福音書のイエスの行動から、
「イエスの人格の本来の内容は、事実、『社会・運動』の二語に要約することができます」
とも言います。

さらに、教会の歴史を次のように語ります。
「1800年もの間、キリスト教会は社会的困窮に相対して、
常に精神を、内面的生活を、天国を指し示してきた。
教会は、説教し回心させ慰めてはきたが、
しかし助けることはしてこなかった。
そう、教会はいつの時代にも、社会的困窮に対する助けを、キリスト教的愛のゆえになされるべき一つの善き業として奨励してはきたが、
『助けることは善き業そのものなのだ』と、思い切って語ることはしてこなかった。
教会は『社会的困窮はあるべきではない』と語ることをせず、
かくして、教会の全ての力をこの<あるべきではない>のために注ぐことをしてこなかった。
(省略)教会は、社会的困窮を、ある出来上がった事実として甘受し、
その代わりに霊や精神について語り、内面的生活を文化的に洗練し、天国のための候補生を準備してきたのであった」

これからはますます<あるべきではない>困窮にあふれる社会になります。
私たちは地域に立つ教会として、
この時代のこの場所に生かされているキリスト者として、
キリスト・イエスに従いたいと願います。