Rainy or Shiny 横濱ラジオ亭日乗

モダンジャズ、ボーカルを流しています。営業日水木金土祝の13時〜19時
横浜市中区麦田町1-5

モノラルの会

2012-07-12 16:23:07 | JAZZ

8日の日曜日は久しぶりの横浜・FAROUTにてオーディオの数奇者が集合、総勢20名の参加者がちょうどよいまとまり具合で三時間ほどイベントを楽しませてもらった。

デジタルオーディオが常識の時代に半世紀以上前のオーディオ文化的にはヘレニズム期とも云うべきモノラル再生時代に拘る古典古代型人種のマイナー且つ真のお洒落ライフを自認する集まりだが、下は32歳、上は76歳とビンテージマニアに年令は関係ない。

持ち寄った機材は戦前のアメリカンオーディオを語るときには欠かすことが出来ないWEの小型モニタースピーカーが二種類、555ドライバーに通称「チリトリ」ホーンと仇名されるWE14Aと励磁型ドライバーWE555が当日の主役だがやや広めのお店にはその小体なチリトリホーンの容姿が心もとないくらいである。

この主役より20数年ほど時代が下がった時期の小さなランドセル箱に収まった30センチフルレンジスピーカーWE728Aが当日の準主役だ。こちらはこの会で真空管アンプを披瀝する機会が多かったKさんの愛蔵品でいつもご自宅で聴かせていただくキャピトルの45回転EPのペギー・リイが凄みで聴かせる「フィーバー」などは、このスピーカーやWE755といった優れた質量を誇る小型スピーカーの為にあるようなレコードで、何回感動させられたことだろう。

主役の14Aスピーカーはロンドンウエスタンの励磁電源を当日の為に奢ったせいか、時間が進む過程でエイジングが働いて見違えるほどジャズボーカルのモノラル再生のリアリズムはかくあるべしといったお手本を示してくれた。

私見では最初の方でドクター桜井さんが至宝品として隠匿していて当日の為に提供してくれたかの薄倖なジャズ的メランコリイを湛えるデッカレコードのビバリイ・ケニーが歌う「Like A Yesterday」の鼻声がかったコケトリイの彫りが意外と浅めで内心がっかりしたこと。
しかしこれは会も半ばで自分が提供した円熟期のドリス・デイが吹き込んだアンドレ・プレビントリオの絶妙な歌伴を得た「DUET」中の「目を閉じて」やジョニイ・ハートマンの「ヴァーモントの月」などを聞き及ぶ過程で誤解だったことに気がついた。やはりボーカルを堂々と鳴らすモノラルスピーカーであることを再認識する。

時間の関係でKさんのフルレンジ728Aは十分に鳴らすまでに至らなかった。これは当日の主装置だったマランツ7のコントロールアンプととても相性がよく作用しなかったことに原因があると思っている。この日はアナログターンテーブルが二台あってふだん接しているGEのバリレラ針以外にも一部ビンテージマニアの間で根強い支持がある大澤式カートリッジが登場した。これはバリレラより厚みの再生感は希薄ながら、高い音域への清涼感溢れる解像力を感じていつか欲しいモノラル針である。

久しぶりの「異口同音」会は皆な年を食って癇症や早とちり人種も散見するようになったが、こんなに優雅なイベントはめったにあるものではなく、古い萩茶碗で美味いお茶漬けをすするようなエレガンスな会としてぜひとも続けたいものだ。

手紙魔

2012-07-02 14:39:10 | その他
7月を迎えると近くの薮の方からコジュケイ、キジバト、ホトトギスのさえずりが聞こえてくる。時々は俳句歳時記で「老鶯」と詠われる夏鶯の鳴き声等も混じってくる。
これまでは中国産のカゴ抜け鳥として野鳥の分類には属していないガビチョウの即興めいたオートマティズム風囀りが、春から初夏をめぐる山里近辺の天下だったが、梅雨空を這うようにつたわってくる在来鳥の個性や哀感を含んだ音調に耳を傾けるているとようやく日本らしい夏が来たことを実感する。

先日、街にあるありふれたリサイクルショップで見つけたクロだか焦げ茶だか釉薬の識別がつかいない湯呑茶碗でしばらく煎茶を楽しませてもらう。高台は土をみせたままで風情がいいが、ロクロ挽きのダイナミズムの盛り上がりに欠けるアマチュア陶芸品の類だがなぜか惹かれるものがある。

これを見ていると口辺にかかる釉薬のぼかし気味な垂れ具合、信楽土独特な石ハゼの突起を含んだ野趣もそこそこに溢れていて蕎麦ちょことしても使えそうだと店員がつけたいい加減な二百円価格を思い出してほくそえむ。
そうこうして雨模様から晴天に反転する時間を楽しんでいたら、一通の手紙がポストに投げ込まれた。
90歳になる母親からの手紙で、いつもながらの鉛筆書きで段落も改行も粗雑な手紙だが、ものへの反応や反射が自分に酷似していることを今更ながら痛感する内容だ。

7月は関東圏の習俗では新盆が控えている。母は退屈な施設の生活から少しでも自由になりたいらしい。新盆の頃に息子の住む家に1泊外出したいらしい。

「この前は可愛い水羊羹をいただきました。おいしかったです。タオルケットもありがとう。毎晩それで寝ています。
私は7月にお盆をしたいからね、新ちゃんの都合をみて1泊外出頼んでください。ナマスも作ってあげたいし、ひろこさんとおじいさん(亡妻と亡父のこと)のお盆飾りを作るから茄子と胡瓜を100円ずつ買っておいてください。笹の葉に飾る物を二枝分一生懸命に作ってます。可愛いものができそうで、泊まれたら笹の葉っぱは自分で取りに行きます。全食無しの外出先食事で申し込んでね。またトーストパンにコーヒー、スイカ、目玉焼きが食べたいです。ミッチャンが来てくれてね。またケンカして帰っていきました。そのときに切手を2枚くれたので、手紙を出しました。。。。。。」
繰言の多い母親だけど手紙を読む限り言葉への感覚はまだ失っていないみたいで安堵する。
しかし、母がこのまま施設で老いを重ねるうちに自分の老境も加速することを考えると安堵と不安が紙一重であることを痛感せざるをえない心境になってしまう。