Rainy or Shiny 横濱ラジオ亭日乗

モダンジャズ、ボーカルを流しています。営業日水木金土祝の13時〜19時
横浜市中区麦田町1-5

東横線新渋谷駅から初台へ

2013-03-22 15:17:29 | その他
話題になっている東横線渋谷駅の副都心線との開通はどんなものなのか、野次馬根性と用事も兼ねて下車してみた。2階にあった東横線のホームと改札出口は既に閉鎖されている。以前は旧称東急文化会館(いまヒカリエ)と北側改札口を繋いでいた渡り廊下があった。今も新ビルを繋いでいるのかもしれないが、確かめてはいない。宮益坂や六本木通りの枝線になっている金王坂方面に行く人はこの渡り廊下で、眼下にある明治通りをバイパスして通勤なり通学をしていたものだ。文化会館の1階とその隣には「ユーハイム」や「フランセ」があって、昔の女友達とお茶をするには格好のエリアだった。20代の後半から50代になるまで渋谷は馴れ親しんだ町である。

最初の勤務地は明治通りに面している宮下公園の前にあった。それから自営になって国道246の通っている南口の桜丘町を皮切りに、麻布十番、勝鬨、代官山、等を転々としながらまた桜丘町へ戻っている。自宅からのアクセスは初期が東横線、後期が田園都市線だった。東横線が代官山のちっぽけな駅を過ぎて蛇行しながら、のろのろと終点に近づく明治通り沿いの余り美しくない景色が今となっては懐かしい。渋谷川の護岸には、それほど立派ではないけど桜も植っているポイントがいくつか見えたものである。明治通りの裏手を電車が走るせいか、ひしめく雑居ビルの裏側は広告掲示場所になっていて、看板や窓に貼ってあるPOP広告を眺めるのも毎朝の日課になっていた。

今度の地下5階ホームはいったい地上の何処に出るのかと思いつつ、指示に従ってエスカレータを上がってみた。なんのことはない。元あった渡り廊下のちょうど、真ん中部分にある地上口にやっと出くわした。そこから南口の東急プラザのあるバスターミナルへ向かう通路などは激変もしていないので安心する。但し、今後渋谷だけをを目的地とした場合だったら、あえて地下5階から地上へ出るという進歩と退歩が同居しているようなこの東横線コースは選ぶ必要が無いことを実感した。

渋谷を後にして代々木の西原からオペラシティがある渋谷区本町へ引越したS夫妻を訪ねる。中野駅行きの京王バスや阿佐ヶ谷駅行きの都営路線バスが頻繁に発着する風景は、昔とそんなに変わらない渋谷駅前である。オペラシティの脇から幡ヶ谷にかけては、甲州街道を挟んで旧都心の住宅密集地帯だ。マンション、アパートの数も半端ではない。しばらくぶりのS夫妻は、重い病気から回復の途上にあって、一年前と比べると動きがとても軽やかになっている。特に旦那さんは大きな危機を超えた様子である。自転車でオペラシティのバス停まで迎えにくるという、相変わらずの気のよさを発揮している。ほんとに小さな部屋のアパートに住んでいるが、ご夫婦には健康を取り戻せた喜びの気配が漂っている。

隣近所に住む年上の孤老風の人々とも穏やかに溶け込んで仲良くやっているみたいだ。ちょうど一年前(2012年3月16日)に亡くなった吉本隆明の「老いの超え方」を読了したところでその感慨は深い。死の三年前にインタビュー形式で口述筆記した体験的老人生態論である。これを思い出したものだからSさん夫妻の解説で近所との交流について雑談混じりに聞き出してわが一人暮らしを照らすことにする。付近にはけっこうな数の高齢者が一人暮らしをしているとのことである。やはり大都会の風景だ。息子夫婦の世話にも、施設にも入らないで自活する90歳の老紳士もそこのアパートには住んでいる。また施設暮らしを辞めてアパートに暮らす共産党シンパ風の80台老女などもいるらしい。傍目からすると、仕方なく強いられた独居の不幸も垣間見えるが、それぞれの話を聞いてみると、お仕着せの定形コースを拒んだ挙句の不如意と自由が半分づつミックスした暮らしのようだ。病気でもすればすぐに崩れてしまう自由である。本当は親子なり、伴侶が傍にあるという幸福を希求したくても個々の事情には多くの障害がある。老人の自己選択の自由が制約無しに実現したら、もう国家というフレームは不要になってしまうという吉本氏の論には頷けると同時に解決不能の困難を感じてしまうものだ。

小さなアパートの清潔な小部屋で四方山話をしながら、シュウマイ弁当や美味いアサリ汁をいただく。春の西日も心地がよい。手土産に持って行った「ご座候」の今川焼きをつまんでいたら、なぜだか小津安二郎監督の映画の1シーンの中にいるような気持のよい錯覚に襲われてしまった。