清純blog

本門佛立宗 常住寺住職・高野清純のブログ

日蓮聖人 日隆聖人 日扇聖人 の 教えや お寺の行事などをアップします

意気地

2014年12月24日 | 学び ・ すすめ

意気地なし(日晨上人要語録より)

日蓮聖人は「心甲斐なければ多くの能無用なり」と仰せられました。

心甲斐なしとは、かい性がないということで意気地なしという意味です。

意気地なしではどんなに頭脳がよくても、体力があっても、技能があっても、その能力を存分に発揮できません。

それで日蓮聖人は

「臆病にては叶うべからず」

「獅子王の如き心をもてるもの仏になるべし」

などと仰せられ、無気力では妙法の大利益をいただくことは困難だと強調されたのであります。


お題目をお唱えする心構えは、佛立第24世講有・小山日誠上人がお示し下された口唱の改良・よいお看経がお手本となります。

「ご本尊をみつめ、姿勢を正し、大きな声ではっきりと、上行所伝のお題目をお唱えさせていただきます。」

人々のご祈願をねがう時の「修行=お題目口唱」は、勇ましく、一生懸命に、根気よく、迷う心なく、おこなって行きたいものです。


てっする

2014年12月22日 | 学び ・ すすめ

日晨上人要語録より、「 父母の恩 - 徹する - 」というコラムを拝見しました。
次のご妙判(お祖師さまのご遺文)をお引きになられて、「不惜身命のご弘通を遊ばされたお祖師さまの原動力になっていたのは〔父母の恩に報いるという心〕から発せられていた。徹する偉力を痛感する。」と仰せになり、徹しておこなうことの大事をお示し下さっています。


 種々御振舞御書
「日蓮貧道(沙門=入門した修行僧)の身と生まれて、父母の孝養心にたらず。国の恩を報ずべき力なし。今度頭を法華経に奉りて、其の功徳を父母に回向せん。そのあまりは弟子旦那等に、はぶく(配当)べし。」


 また、次のコラムを引用され、「身近なことを、徹して、見よう、考えるべし。」とご指南下さってあります。

 「父母の恩」 三木公久

高校生諸君の作文を見ていたら、早く父親をなくし、母親の細腕一つで育てられた高校生の母親への感謝の情をつづった文章が目にとまった。

長い間の苦労で、からだが弱ってきた母親が病の床についたのを看護しながら、この作者は、早く大人になってその恩に報いたいと願う。そして、どんな形で恩に報いようかと、さまざまに心を砕くのである。が、これといって良い方法は思いつかない。作者の頭に浮かぶのは、いつか母親をどこかの温泉へ保養に連れて行くこと、それくらいのものなのだ。作者は、それがありふれた、子どもじみた考えだと自分で苦笑いしながらも、いつもその考えに熱中しているのである。

なんだ、ほかにいくらでも、もっといい恩返しの方法がありそうなものだ。そう思うかもしれないが、それなら、あなただったら何をするかと問われれば、やっぱり返答に窮するだろう。

母親に限らず、親と子の関係は、もともとそういうものなのだ。つまり、子は親の恩に、ついに報いることができない宿命を、生まれながらに負っているのである。親の恩はあまりに大きく、あまりに深いものだからである。期間的にみても親が子をはぐくむ年月は長く、それに比べて子が親に孝養を尽くせる年月は短いのである。親は子が一人前になって孝養が尽くせるようになる日を、いつまでも待っていてはくれないのだし、一応の実力が身に備わり、さあ、これから大いに孝行しようと思うときには、すでに親はこの世にいない。。。というのが、古今を通じて変わらない、多くの人の子の嘆きであるのだ。

今ここに世界一の親孝行者がいて、あらゆる孝養を尽くしたとしても、その努力は、親が彼に払った苦労の〔百分の一〕にも満たないのである。

しかし、父母のほうは、子どもたちに何かをしてもらおうなんてことは、でんで頭にないのである。それどころか、自分たちの命ある限り、物心の両面について、子どもたちを激励応援しようという考えしか頭にないのだ。こんなことが親子以外の関係でありうるだろうか。

われわれは、父母に、いわゆる「恩返し」ができぬ。それゆえに、父母は、われわれにとって絶対的な存在なのだ。つまり、われわれが絶対に侵すことのできない唯一至高のものとして、親はわれわれの前に厳として存在しているのである。

とうてい報いえぬ親の恩ではあるが、また、それだからこそ、子は、できる限り親に尽くさなければならないのだ。たとえ、子供じみた考えであったとしても、母親への報恩の念を温泉行きという形に表さないでいられない、子の気持ちというものは、やっぱり、貴く美しいのである。そしてまた、子の親を思う心は、それを表す形が、いかに小さく、ささやかであっても、今まで子のために払った苦労を一度に忘れ去るほど、親の心を喜ばすのだ。


 親孝行は、自分がソバにいてもらったのと同じだけ、親のソバにいるのが、一番の孝行になるのでしょうね。ことあるごとに捧げる、捧げたい、との思考の中です。何気ない日常であるが、よく考え=よく親の思いを察して、接するべきなのだと考えさせられました。また、いまの世の中は、我が師の恩などという言葉が、危うく死語になりかけている風潮があるように思えてなりませんが、親の恩、師の恩、長幼の序を弁えるなどの思考が、もう少し弘まってもいいと思います。

お寺は、お題目を唱えて功徳を積む場所。積んだ功徳は親や周りに回り向かっていきますようにとの菩薩心を常々もってご信心に励むのです。孝行と功徳を向かわす。そして、日々それらに心を砕いて、徹することをお教えいただきました。


協力の徳

2014年12月17日 | 学び ・ すすめ

佛立第15世講有「日晨上人要語録」より。(太字は要語録の本文)


 

「悪いゾウに卵を踏みつぶされたスズメは、キツツキに訴えました。」

「どうか私のうらみをはらして下さい。」

キツツキは「苦しむ友を見捨てぬのが真の友といわれているから力を貸そう」といって、ハエとカエルの協力を得て、悪いゾウの征伐にかかりました。

弱い動物たちは相談し、ハエはゾウの耳に入り、キツツキはゾウの目をつつきました。目をやられたゾウに、カエルは鳴き声を出して水のありかを示すようにして、深い穴に誘導しました。悪いゾウはついに、穴におちてしまいました。

ここには、弱者同士が自分の身を守るために、どう協力すれば勝つかそのやり方が説かれています。協力は弱者を強者にします。


昔から「三人寄れば文殊の知恵」ということわざがあります。文殊は仏教では知恵をつかさどるお方です。

「膝とも談合」=相談するに足りないと思う人にでも、相談したらしただけの御利益がある。協力で利口になるという意味。


梅雨時の田園風景で、共同作業で田植えをしているのを見ると、人間の協力美を感じます。(逆に)最も親密な両親とか兄弟が協力しないで困るなどという話しを聞くとイヤな気持ちになります。当事者もさぞ不愉快なことでしょう。ですから、隣人との交わりも、勤務先、その他周囲との関係は、争わぬよう心がけ不愉快のたねを減少することが肝要です。世をうらみ、人をとがめてばかりいる人は、周囲の人々との関係に配慮が不足で、協力から生ずる楽しみを知らないようです。日頃相談しあったり、力の貸しあいのできる人は、人間関係の調節が上手な人で(中略)気持ちがよければ、それが健康にも影響し、気持ちに余裕があれば勉強も楽しくすすみ、人にも親切になり、さらに愉快になること請け合いです。


本文の途中には、肝心要の、「ご信心をさせていただく人々の、異体同心の和を破るようなことをするのはダメ」とお叱り下さってあります。このコラムは、本来はここがメインです。

日晨上人の要語録を拝読して、仏さまの教えを柱として、その教えのもとに集い、協力しあって、よい空気を広げていけるようになりたいものだと思ったものです。


四条金吾殿御返事

2014年12月16日 | 学び ・ すすめ

タイトルは、お祖師さま(日蓮聖人)の御遺文名です。御抄・御書のことを、ご妙判(ごみょうはん)と申します。


 

賢人は(けんじん・は)八風と(はっぷう・と)申て(もうして)八のかぜに(やっつ・の・かぜ・に)をかされぬを(おかされぬ・を)賢人と(けんじん・と)申なり(もうすなり)。

利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽、也(なり)。

をゝ心は(おおむね・は)利あるに(り・あるに)よろこばず。をとろうるに(衰える・に)なげかず等の(なげかず・とう・の)事也(ことなり)。

(この)八風に(はっぷう・に)をかされぬ(おかされぬ)人をば(人をば)必ず天は(かならず天は)まほらせ(守らせ)給也(たもうなり)。


【八風】
八風(はっぷう)とは、仏の教えに基づいた修行を妨げる8つの出来事の事。
人間が求める4つのできごと・四順(しじゅん)と、人間が避ける4つのできごと・四違(しい)がある。

四順
利い(うるおい)‐目先の利益
誉れ(ほまれ)‐名誉をうける
称え(たたえ)‐称賛される
楽しみ(たのしみ)‐様々な楽しみ

四違
衰え(おとろえ)‐肉体的な衰え、金銭・物の損失
毀れ(やぶれ)‐不名誉をうける
譏り(そしり)‐中傷される
苦しみ(くるしみ)‐様々な苦しみ


人のために いのる

2014年12月03日 | 学び ・ すすめ

昨晩、niheiさん宅のお綿かけをさせていただきました。

カレー作って待ってるからと仰っていただきましたので、裕香もいっしょにお伺いしました。

niheiさんは裕香のことをとても可愛がって下さるのです。

いつも可愛がって下さるからというワケではありませんが、お看経をおあげする直前に、裕香にこう申しつけました。

「niheiさんが元気で過ごせますように。niheiさんが幸せでありますように。とお願いする気持ちでお看経させていただこうね。」

このように申しますと、なにやらはにかむような笑顔で「うん。そうだね。」とご返事がかえってきました。

はたしてお看経の様子はと申しますと、とても大きな声で勢いよく、短いお線香一本のお看経をあげてくれました。

人のためにいのる。お世話になっている人。自分が大好きな人のために、精一杯の祈りを捧げたいという思いでお看経をあげることができたのでしょう。

ご信心では、すべての生きとし生けるもの、一切衆生が救われることを祈るべしと教わります。では、好きではない人、さらに憎むような対象に対してはどのように向き合うべきなのでしょうか?好きではない原因を絶って、すなわち、罪障消滅をいのって、先々によいご縁を結べるように祈りたいもので、まさしく、罪を憎んで人を憎まずという類いの心持ちで仏道修行に励みたいものです。さらには、人間関係がよくない原因を自分に求め、自分自身の罪障消滅をもいのるべきとなるワケです。

そもそも、いのる気持ちそのものが持てない人だってたくさんいます。そんな中、まだチビですが、裕香は大好きなniheiさんのために祈ることができました。これから成長していく中で、ご宝前さまのおこころを学び、すべての生きとし生けるものが救われることを、自分の願いとなれるように育っていってほしいとねがいます。

人のためにいのる。菩薩行を志す人の心持ちです。


有り難い

2014年11月24日 | 学び ・ すすめ

まだ小さな女の子ですが、先天性の疾患によりしゃべることができません。障害をかかえているのです。親御さんは、この子の成長にあわせて、様々な努力をします。そんな様子の一端を、南米チリ人の僧侶・ディアス淳開師のご法門の中で聴聞しました。

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21日~26日まで、大阪・清風寺さんのお講師方が常住寺に寄宿して、関東圏在住のご信者宅を巡回ご奉公されています。寄宿中は毎朝、常住寺の朝参詣にもご出仕いただいておりますので、毎朝のご法門は清風寺のお講師方におねがいしています。そんなご縁で、ディアス淳開師のご法門をライブで聴聞できました。

さて、少女のお話しに戻ります。あるときご両親は娘のために、あいうえおの五十音が書かれたボードを用意します。これを使って、会話をする練習をします。練習の甲斐あって、やがて自分の意思を伝えることができるようになりました。

短い言葉を表現するのにも、ものすごく時間がかかるといいます。たとえば、ボードの文字を、「あ・り・が・と・う」と一文字ずつゆびさしていくのでしょう。それを親が見守ります。時間はかかります。かかりますが、それでも本人は、ものすごく嬉しいのだといいます。自分の意思を人に伝えることができるようになった。本当に嬉しいと心から喜んでいるのです。

健康な人たちは、あたりまえに会話します。それは、年とともに悪いところはでてくるでしょうが、それでも困難は少ないのではないかと思えます。少女の望みは、お父さんお母さんに「おはようございます」「おやすみなさい」と、言葉を発してごあいさつすること。これがねがいだといいます。この願いが叶いますように。。。願ってやみません。

当たり前にできていることが、当たり前ではないということ。この少女は、会話できることが当たり前ではなく、とても努力して喜びを得ました。愚痴は一切ないといいます。グチよりも、会話ができるようになった喜びが大きく、「有り難い。ありがたい。」という気持ちばかりなのだと聞きました。実に前向きです。よろこびつつ、先を先を見て、勇ましく精進しているのでしょう。

Chile

このお話しをされているディアス淳開師は南米・チリ人です。チリの公用語はスペイン語です。空手を習いたくて来日することになり、そこから縁をえて出家し僧侶となりました。

「日本のご信者さんより、私の方が幸せです。なぜなら、遠くチリから日本に縁をえて、そしてこのご信心にお出会いできた。この確率はものすごい。」といいます。本当にその通りでしょう。ですから、いまこうして菩薩行に励んでいる日々を、【あたりまえの日常】と捉えず、感謝の日々をすごしているのがよく分かります。

少女のお話しも、日本人の我々が説くより、異国の地・日本で苦心して仏道修行に励んでいるディアス師が説いた方が、心情や情景がより伝わるように感じました。つまりディアス師は、自分なりのご法門の説き方をよくわかっているということでしょう。流暢な日本語で話します。笑いと涙も織り交ぜて説いて下さいました。これを当たり前と聞き流すことはできません。有り難い。あることがたし。

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(チリの国旗。。。北朝鮮ではありません。)


なにに喜ぶか

2014年09月12日 | 学び ・ すすめ

裕香の「お数珠の房」を、ほんもん屋さんで取り替えてもらいました。

新しい房(ふさ)は正絹です。それでも、3,500円ほどでお取り替えできました。子ども用のお数珠ですから、数珠玉がとても小さく、108個連なる円も直径15㎝くらいです。きれいな桃色に染められた正絹の房はとても素敵な出来映えに仕上がりました。

ゆかは、お数珠を修復に出している間、2~3日おきに「まだできないの」と聞いてきました。よほど待ち遠しかったのだと思います。

できあがったお数珠を渡すと「わーキレイ。おとうさんありがとう。」こう言って喜んでくれました。こういう場面で喜んでくれる事を、親ばかですが嬉しく思います。将来、自分の家にお祀りしたご宝前さまも、恭しくしっかりとお給仕させていただくことができる人となってほしいと切に願います。


この人ぼさつ

2014年09月08日 | 学び ・ すすめ

常住寺では、今年から「誕生自祝運動」をおこなっています。

これは、ご宝前に対し奉り、御礼をお供え申し上げる習慣を身につけるための運動で、毎月の御礼、ご利益をいただいた時の御礼、人生の節目にお供え申す御礼(卒業や結婚、出産など)をさせていただけるようになって行くための、はじめの一歩です。

一昨日あがった誕生自祝の言上書に、次のように書いてありました。

「むすめが、初めて自分でお金を出して、お供えさせていただきました」

普段、言上書にはこのような事を書きません。

むすめさんの文字と、お父様の書いた文字とが、一枚の言上書にしたためてありました。

朝参詣後このご信者さんにお声をかけました。

「よかったですね。ありがたいです。」こう申し伝えましたら、

「はい。ありがたいです。いつもは私がお金を出してましたが、今回は娘に折伏をいたしまして、自分でお供えするように申しましたところ承知してくれまして、この金額でよいかと聞かれて、これをお供えするように申しました。本当によかったです。とても嬉しいんです。ありがとうございます。」

こんなお答えでした。

とても嬉しそうに、お話し下さったお父様。この方はいつも、あついご信心前で、寺内の雰囲気を正しい信心の方向へと引っ張っていってくれます。たった一人、こういう人がいるだけで、本当に雰囲気が変わります。

尊いご奉公をされている中で、やがては次世代の信心相続も、キチンとご奉公を果たしてくれることと思います。

篤信のご信者が、菩薩行を一つ成就して喜んでいる姿を、出家のものとして、同じくとても嬉しく思った一場面でした。合掌。


健全な肉体 健全な精神

2014年07月18日 | 学び ・ すすめ

やたら黒くて、背が高く、健康そうな中学生がお参りにきます。

まさの小学校時代の同級生で、「こどもお話し会」と「寒夏参詣」の常連だった子たちです。

つい最近まであんなに可愛かったのに、もう声変わりもして、大人びた姿になっていました。

部活で鍛えられた体は、まるで高校生かと思うくらいガッチリしています。

お看経中なので、「おす~」という感じで目配せすると、かわらない優しそうなまなざしでこちらを見て、ペコりと返してきます。

一生懸命お看経をあげて、真剣にご法門を聴聞してる姿がたまりません。

子どもたちは、小学校1年生で同級生になって、ずっと仲良しでした。

いまは違う学校に通ってますが、大人になっても、ずっと仲良しでいてほしいと思うのです。

彼らのごあいさつは抜群です。

自分の方から先にあいさつする習慣が身についています。

「こんにちは~!」と、短く大きな声ではっきりと声をかけてくれます。

人に対して、自分からすすんでご挨拶。

試合や練習を見に行くと彼らは、グランドに向かって、大きな声で「ありがとうございます」とお辞儀します。監督・コーチや保護者の方々にも、きちんと礼をとっていました。

体育会系は、本当にすばらしいです。

ボクも、できるだけ自分からあいさつするよう心がけています。

どんな人にも率先してあいさつするようにしています。

これをするだけで、きっと、自分を取り巻く世界が大きく変わることでしょう。。。

不軽菩薩の精神をまねて、自分からあいさつをしたいものです。


許すのだよ・・・。

2014年07月12日 | 学び ・ すすめ

ゆるせ。ゆるせ。なんでもいいから。とにかく許せ。

はらたてるな。人をジャッジするな。

すべて失っても、生きてりゃまた稼げる。

許せると、そこから始められる。

馬鹿にされても。割を食っても。人にだまされても。

ゆるせ。ゆるせ。とにかく、まずは許せ。

プライドを捨てろ。一番邪魔なものだぞ。

いいか。約束したぞ。


鴛鴦の契り

2014年07月07日 | 学び ・ すすめ

先般、墓地回向でお線香をお供えするとき、杖をつかれた奥さんをエスコートするご主人のお姿を拝見しました。ご高齢のご夫婦ですから、ご主人もそれなりにゆっくりゆっくりと動くしかありません。

それでも、奥さんをいたわって、手を添えて転ばないようにとソバで支えていらっしゃいました。そのお姿が何とも紳士的で、ありがたく思えたものです。

互いに慈しみ合えるのは、ホント、すばらしいです。

「鴛鴦の契り」(えんおう の ちぎり)

「鴛」はオスの、「鴦」はメスの「おしどり」のことを指します。

「仲むつまじい、おしどり夫婦」という意味。


一隅を照らす

2014年07月06日 | 学び ・ すすめ

「妙楽」曰く

径寸十枚非是国宝 照千一隅是即国宝

経寸十枚 是れ国宝に非ず 一隅を照らす此れ即ち国宝なり

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財産や貴重なモノを所持している人が国の宝ではなく、いまいる場所を安穏にさせるような人こそが、まさしく国の宝なのである。

すなわち、お題目を我も唱え人にもすすめて、多くを利益せしめんと励む人、慈悲の心ではたらきかける人は本当にありがたい、国の宝とも言える存在です。

優しい心で、この場を照らす人。あなたがいるから、いつもここは明るい。あなたがいるから、いつもやすらいでいる。ありがとうございます。


諸行無常(しょぎょうむじょう)

2014年07月03日 | 学び ・ すすめ

諸行無常とは、「この世に存在するすべてのものは、同じ状態を保つことなく移り変わっていき、永久不変なものなどない」という意味です。

この教えは、ブッダが涅槃に入られるときに、沙羅双樹の木の下で説かれたとされており、すなわち出典は涅槃経です。

【平家物語】のはじめに引用されており、「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらわす。」と、うたわれています。

「諸行」とは、この世の一切の事物・現象のことを指します。

「無常」とは、この世にある一切のものは常に移り変わり、不変のものは、なに一つないのだというコトを表しています。

人生のはかなさを表す言葉であり、一般的には、世の中の移り変わりの激しさや、人の死を悼み、嘆き悲しむときに使われるようです。

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無常の反対は、常住寺の「常住」です。

ご法さまの存在。そして上行所伝のお題目の功徳。

目には見えませんが、消えることなく、変化することなく、常に篤信のご信者の魂を救って下さいます。

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刹那というコトバがあります。

一期一会のように、その瞬間という意味があり、「嬉しく楽しい時間など、ほんの刹那」というような言い方をします。

また仮に、嬉しく楽しい状況が永遠に続いたとしても、その状況を享受する人間の心が変化してしまいます。ちょうど、良いニオイをかいでいたくても、鼻がニオイを感じなくなるようなものです。

刹那は一瞬であり、その一瞬は「一生」を指したりもします。人の一生はまばたきする間ほどのものであり、反面、苦楽はながく感じるものなのでしょう。

そして、その短い一生の中でも、刹那的な場面がくり返しくり返しやってきます。得れば尽きるか壊れてしまい、出会えば必ずいつか別れるのが定めという、ことわりです。

そんな儚い「人の夢」だからこそ、上行所伝のお題目を行住坐臥に(どんな時でも)お唱えし、功徳を積むことをもっとも大事にしたいのです。

人は、生まれて死んでを繰り返します。過去の因縁を引いて今生の縁をいただき、今生の因縁を引きずって、来世の道のりが決まると説かれます。

お題目を唱え重ねつつ化他行に励み、功徳を積んで寂光へ帰る。そしてまた、春になるとキレイな花を咲かせる桜のように、あなたが、人間世界に生を得て、ボクらのソバに現れてほしいとねがっています。その時はまた、いっしょにご奉公させていただきましょう。。。

【ご教歌】

 とこしへの都の春の花なれば ちるも常住さくも常住


うしろ姿

2014年06月30日 | 学び ・ すすめ

一昨晩、大本寺・乗泉寺にて、宗会の議案についての勉強会が行われました。

終了後、本堂へごあいさつに上がりますと、一番前で二人ばかり、熱心にお看経されてる人がいました。現在、出家得度させていただくために見習いとして入寺した二人です。

ちょっとごあさつのつもりが、一緒にお看経させていただきたくなり、おそらく8時の閉門時間には終わるだろうと読めば40分ほどです。時間は大丈夫ですから、させていただくことにしました。

彼らは一番前。ボクは一番後ろに座ってましたので、その距離は数十メートル。イス席で一千人を収容でる広さです。この大伽藍でおこなわれていた「夜の大合唱」に加わり、ありがたさで一杯になりました。

彼らの後ろ姿からは、真剣さが伝わってきました。背筋が伸びてご本尊を一心にみつめておりました。

秋には得度のお許しがいただけることでしょう。彼らはそれまで、この乗泉寺の敷地から、一歩も出ることができません。限られた空間で、逃げ場なく修行に励む日々を過ごしているはずです。

頬がやせこけ、やけに大きくみえてしまう彼らの「まなこ」は、遠く未来をみつめて、広く世界をみつめているかのようでした。力強く、慈しみのある「まなざし」でした。

大事なご奉公のあとに、見習いさんのお看経をあげている姿が、初心をおしえてくれました。

初心忘るべからず。

時々の初心忘るべからず。

老後の初心忘るべからず。


空 気

2014年06月25日 | 学び ・ すすめ

昨日、赤羽の銀行にいきました。渋い青が基調の、看板が目印です。

コンクリに囲まれた駐車場から地上にあがると、じゅうたんが敷きつめられた、いつも見ている景色・銀行のフロアに直結です。

あと数段のぼれば一階というタイミングで、女性銀行員3人の、楽しげではずんだ会話が聞こえてきました。どうやら、熟練の先輩が新人を指導している場面のようでした。

お堅いイメージの銀行ですが、そういう雰囲気ではなく、でも悪ふざけをしていて、周囲が見えていないという風ではありませんでした。

なごやかで、穏やかで、とても打ち解けていて楽しげ。それでいて、気配りができている。一階に到着する寸前から、瞬時に、そんな雰囲気に気づきました。そしてこちらまで、つられて楽しい気持ちになってしまいました。これは一瞬にして、そうなりました。

空気がうつる。よくあることです。

年配の、指導員らしき女性銀行員は、お局様的な感じではなく、とても気さくな、顔から優しさがにじみ出ているように思えました。

世話をするのが好き。面倒見が良い。明るい。人がいい。

こういうのは、勉強したらそうなれるのではなく、生まれ持った気質でしょうし、育った環境もそうですし、育ててくれた人からの、空気の教育によるものが大きくものをいうのでしょうね。そして、みなさん、馬が合った人が配置されてたということでしょうか?

いずれにせよ、見事でした。ちょっとしたことですが、とても感動しました。

見習いたいと思った次第です。