朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

秘密を明かす天の神が言われるのだそうです。

2017-12-20 08:10:44 | 聖書から
秘密を明かす天の神がおられます。ダニエル書2:28

 「神の国は、見える形では来ない。
『ここにある』『あそこにある』と言えるものではない。
実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」ルカ17:20~21

 イザヤ42:5~9
 ゼカリヤ書14:1~11(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句12/20;水)

 人が知り得ない秘密、
この人間の歴史に起こる将来のことを明かされる方がおられるというのですね。
バビロンの王、ネブカデネザルに夢で、人間の歴史の行く道を告げ、
ダニエルを通してその夢の解き明かしを与えた方。
その方は、この人間の歴史を支配しておられる方。


 その方が言われるのだそうです。
見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、
わたしのこころに喜ぶわたしが選んだ者。
わたしは彼の上にわたしの霊を授け、
彼は国々に公義をもたらす。

彼は叫ばず、声をあげず、
ちまたにその声を聞かせない。
彼はいたんだ葦を折ることもなく、
くすぶる燈心を消すこともなく、
まことをもって公義をもたらす。
彼は衰えず、くじけない。
ついには、地に公義を打ち立てる。
島々も、その教えを待ち望む。

天を造り出し、これを引き延べ、
地とその産物を押し広め、
その上の民に息を与え、
この上を歩む者に霊を授けた神なる主は
こう仰せられる。
「わたし、主は、
義をもってあなたを召し、
あなたの手を握り、
あなたを見守り、
あなたを民の契約とし、国々の光とする。
こうして、見えない目を開き、
囚人を牢獄から、
やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。
わたしは主、これがわたしの名。
わたしの栄光を他の者に、
わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。
先の事は、見よ、すでに起こった。
新しい事を、わたしは告げよう。
それが起こる前に、あなたに聞かせよう」(イザヤ42:1~9新改訳)と。

 パリサイ人がイエスに、「神の国はいつ来るのか」と尋ねたとき、
イエスはこのように答えられたのだそうです。


イエスの初臨(一回目の来臨)によって、
この人間の歴史に突入して来た「神の国(神の統治)」は、
人の目に見えるかたち、地理的な、物理的な形で、ではなく、
権力、統治権が来たことだったようです。
悪霊さえも命じればその言葉に従い、
病や死、ガリラヤ湖の暴風さえもイエスの言葉に従うという。

 イエスは、その「イエスの御名」の権威を弟子たちに授けられたのだそうです。
「汚れた霊どもを制し、
あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやし、
天の神、主の統治を地上にもたらすようにと(マタイ10:1)。

しかし、イエスが三度目に来られるときには、見えるかたちで神の国が来るようです。
預言の言葉は次のようですから。

「見よ。主の日が来る。
その日、あなたから分捕った物が、あなたの中で分けられる。
わたしは、すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。
町は取られ、家々は略奪され、婦女は犯される。
町の半分は捕囚となって出て行く。
しかし、残りの民は町から立ち滅ぼされない。

 主が出て来られる。
決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。
その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。
オリーブ山は、その真ん中で裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。
山の半分は北に移り、他の半分は南に移る。
   ~~~

その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。
これはただ一つの日であって、これは主に知られている。
昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。
その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、
その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、
夏にも冬にも、それは流れる。
主は地のすべての王となられる。
 その日には、主はただひとり、御名もただ一つとなる。
  ~~~
 そこには人々が住み、もはや絶滅されることはなく、
エルサレムは安らかに住む」(ゼカリヤ14:1~11)と。

 これは黙示録19:11節からに対応しているのでしょうか。
最後の部分は、黙示録21章、22章のことのようです。


 秘密を明かす天の神がこのように言われているのだそうです。
この人間の歴史の行く先を。

 私たちも、この歴史の流れを見つめながら生きるのですね。
イエスが遣わしてくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
今、来ている、見えない形での神の国の中を。
今日も。

期待し、待っているなら

2017-12-19 09:13:30 | 聖書から
カレブからヨシュアへの言葉:
一緒に行った者たちは民の心を挫(くじ)きましたが、
私は私の神、主に従い通しました。ヨシュア記14:8

 忍耐によって、
あなたがたは命をかち取りなさい。ルカ21:19

 イザヤ書11:10~13
 ゼカリヤ書12:9~13:1(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句12/19;火)
 モーセを指導者としてエジプトを脱出したイスラエルの民、
約束の地を目の前にするカデシュ・バルネアから
部族のかしら12人を偵察に出したのだそうです。

彼らは40日かかって約束の地を北から南までさぐり、
その地が乳と蜜の流れる地、良い地であること、
しかし、その地に住む民は力強く、町々は城壁で囲まれていて大きく、
彼らには私たちがイナゴのように見えたことだろうと報告し、
民の心をくじいたのだそうです。

 それで民は、自分たちで別の指導者を立て、
エジプトに帰ろうと言い出したのだそうです。
 そのとき、ヨシュアとカレブだけは、
「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。
もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、
それを私たちに下さるだろう。
あの地には、乳と蜜が流れている。
だだ、主に背いてはならない。その地に住む人々を恐れてはならない。
彼らは私たちのえじきとなるからだ。
彼らの守りは、彼らから取り去られている。
しかし主が私たちとともにおられるのだ。
彼らを恐れてはならない」と説得したのですが、
民は彼らを石で打ち殺そうとしたのだそうです(民数記13:1~14:10)。

 それで、天の神、主は、イスラエルの民を荒野に向かわせ、
荒野での40年を過ごさせて、
このとき、つぶやいた者、20歳以上の登録され、数えられた者は、
約束の地に入ることが許されず、
背信の罪を負って荒野で死ぬことにされたのだそうです。

 「しかし、ヨシュアとカレブは、わたしに従い通したので、
わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。
彼の子孫はその地を所有するようになる」(民数記14:20~38)と。

そして、それから45年の後、85歳のカレブは、
モーセの後継者となり、民を約束の地に導き入れたヨシュアに申し出て、
約束のヘブロンの地を相続地として受けることになり、
その地に戦争はやんだのだそうです(ヨシュア14:6~15)。

神のみこころを行って、約束のものを受けるためには、忍耐が必要なのだそうです。
期待し、待ち望み続けることによって、
約束の命を勝ち取るようにしていただけるのだそうですから。

 その日、エッサイ(ダビデの父)の根は、国々の旗として立ち、
国々は彼を求め、
彼のいこう所は栄光に輝く。
その日、主は再び御手を伸ばし、

ご自分の民の残りを買い取られる。
主は、国々のために旗を揚げ、
イスラエルの散らされた者を取り集め、
ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる。
エフライムのねたみは去り、
ユダに適する者は断ち切られる。
エフライムはユダをねたまず、
ユダもエフライムを敵としない(イザヤ11:10~13新改訳)

 「その日、わたしはエルサレムに攻めて来るすべての国々を捜して滅ぼそう。

わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。
彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、
ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、
初子を失って激しくなくように、その者のために嘆く。
その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、
罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる」(ゼカリヤ12:9~13:1)。

 2000年ほど前、確かにイエスは、死亡の確認のため、槍で突き刺され、
御座に着いておられる方は、屠られた小羊と見られる方なのだそうです。

 期待をもって待ち望み続ければ、命を勝ち取るのだそうですから。
私たちも。
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約束の言葉のとおりに、実現してくださるのだそうですから。

2017-12-18 07:40:41 | 聖書から
主はとこしえに契約を御心に留められる。
千代に及ぼすように命じられた御言葉を。詩105:8

 かつて書かれた御言葉は、
すべて私たちを教え導くためのものです。
それで私たちは聖書から忍耐と慰めを学んで
希望を持ち続けることができるのです。ロマ書15:4

 Ⅱコリント1:18~22
 ゼカリヤ書11:4~17(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句12/18;月)

 紀元前520年頃のこと、
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
ゼカリヤを通して預言して言われたのだそうです。
「私は彼らに言った。
『あなたがよいと思うなら、私に賃金を払いなさい。
もし、そうでないなら、やめなさい。』
すると彼らは、私の賃金として、銀30シェケルを量った。
主は私に仰せられた。
「彼らによってわたしが値積もりされた尊い値を、陶器師に投げ与えよ。」
そこで、私は銀30を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた。」(ゼカリヤ11:12~13)、と。

 そして、それから550年ほど後のこと、
当時のイスラエルの指導者であった祭司長たちは、
イエスの12弟子の一人の、イスカリオテのユダに、
イエスを売り渡す報酬として、銀貨30枚を支払ったのだそうです(マタイ26:14~15)。
そのあと、ユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、
銀貨30枚を、祭司長、長老たちに返して、
「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と言ったのだそうです。
 しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」と答え、
ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、
外に出て行って、首をつったのだそうです。
 祭司長たちは銀貨を取って、
「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから」と言い、
相談して、その金で陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地にした(マタイ27:3~7)のだそうです。


〔父である神〕は、約束の言葉を忘れてしまったり、なさる方ではないのだそうです。
神の約束はことごとく、イエスにおいて「しかり」となり(Ⅱコリント1:20)、
完了し(ヨハネ19:30)、実現しているのだそうですから。

〔父である神}はまた、確認の印を私たちに押し、
保証として、〔聖である霊〕と呼ばれる方を私たちの心に与えていてくださるのだそうです。

この方、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって(エゼキエル36:25~28)、
新しい契約、
「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
彼らがみな、わたしを知る」(エレミヤ31:31~34)ようになるとの
約束の言葉が実現しているのだそうですから。

 私たちも、
「さあ、人を造ろう。
われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)、

「それは、父よ。
あなたがわたし(イエス)におられ、わたし(イエス)があなたにいるように、
彼らがみな一つとなるためです。
また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。
わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。
それは、彼らが全うされて一つとなるためです」(ヨハネ17:21~23)
と言われているとおりにしていただけるのだそうですから。
今日も。
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主のために、道が備えられて

2017-12-17 09:27:54 | 聖書から
主のために、荒れ野に道を備えよ。
見よ、主なる神は力を帯びて来られる。イザヤ書40:3、10(12/17の週の聖句)

 死期が近づいたとき、
ダビデはこう言って王子ソロモンを戒めた。
「わたしはこの世のすべての者がたどる道を行こうとしている。
あなたの神、主の務めを守ってその道を歩め。」列王記上2:1~2、3

 パウロの言葉:
わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。
どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、
神の御心を十分悟り、
すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、
あらゆる善い業を行って実を結び、
神をますます深く知るように。コロサイ書1:9~10

 マタイ11:2~6(7~10) 
 ルカ1:46~55(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句12/17;Ⅰ日)

 主である神が、私たち人間のところに来られる、というのですね。
だから、そのために道を備えよ、と。

 ダビデ王が、死ぬ日が近づいたとき、息子のソロモンに、
「主の戒めを守り、
モーセの律法に書かれているとおりに、
主のおきてと、命令と、定めと、さとしを守って主の道を歩むように」と言い残したように。

 イエスが、キリスト(神の子である救い主)として、公の活動をする前には、
バプテスマのヨハネが世に現れ、
「悔い改めなさい(神のほうに向き変りなさい)。
天の御国が近づいたから」と教え、
人々の心を、天の神、主に向けさせてイエスの道備えをしたのだそうです(マタイ3:1~12)。

 そのヨハネも、自分は領主ヘロデに捕らえられて獄中にあり、
イエスが、御力を現し、王の座に着いて人々をさばこうとしないので、
イエスのもとに使いを送って尋ねたのだそうです。
「おいでになるはずの方(キリスト)は、あなたですか。
それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」と。

 それに対して、イエスは答えられたのだそうです。
「あなたがたは行って、
自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。
目の見えない者が見、
足のなえて者が歩き、
ツァラート(ハンセン病などの重い皮膚病)に冒された者がきよめられ、
耳の聞こえない者が聞き、
死人が生き返り、
貧しい人たちに福音が宣べ伝えられている。
だれでもわたしにつまずかない者は幸いです」(マタイ11:2~6新改訳)と。


 マリヤが天使ガブリエルから、
「おめでとう。恵まれた方。主があなたとともにおられます。
御覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。
名をイエスとつけなさい。
その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。
また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります」と
告げられた時、
不妊でありながら、老年になって、
神によって子を宿した親戚のエリサベツ(バプテスマのヨハネの母)を尋ねたのだそうですが、
そのときにマリヤは言ったのだそうです。
「わがたましいは主をあがめ、
わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。
ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。
力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。
その御名は聖く、
そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
主は、御腕をもって力強いわざをなし、
心の思いの高ぶった者を追い散らし、
権力のある者を王位から引き降ろされます。
低い者を高く引き上げ、
飢えた者を良いもので満ち足らせ、
富む者を何も持たせないで追い返されました。
主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、
そのしもべイスラエルをお助けになりました。
私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです」(ルカ1:46~55)と。

 最初のイエスの来臨の時は、このようだったのだそうですが、
二度目に、イエスが、
天使の号令と神のラッパの鳴り響く中に来られる(Ⅰテサロニケ4:16~17)前は、
イエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、備えがなされるようです。
この方によって受け入れる者の心に〔父である神〕の御思いが来るようになり、
受け入れる者が、霊的な知恵と理解力によって、
神のみこころに関する真の知識に満たされ、
主にかなった歩みをして、
あらゆる点で主に喜ばれ、
あらゆる善行のうちに実を結び、
神を知る知識を増し加えられるのだそうですから。

 この新しい週も。
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偉くなりたい者は、皆に仕える者に

2017-12-16 21:51:32 | 聖書から
災いだ、悪事を謀る者は。
彼らはそれを行う。
力をその手に持っているからだ。ミカ書2:1

 イエスは一同に言われた。
「異邦人の間では、
支配者と見なされている人々が民を支配し、
偉い人たちが権力を振るっている。
しかしそうではなく、
あなたがたの中で偉くなりたい者は
皆に仕える者になりなさい。マルコ10:42~43

 Ⅰテサロニケ4:13~18
 ゼカリヤ書9:9~12(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句12/16;土)

 この、人間の歴史を見てみると、
私たち、天の神、主との、心を一つにしていく関係を嫌い、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって、
神の御住まいの上に自分の座を置こうとしている者は、
力を持ち、人を支配する立場になると、
良いものを独り占めしたくなり、
悪事を謀り、行うようになってしまうようです。

 イエスは、弟子たちの間で
「偉くなりたい者は皆に仕える者になりなさい。
人の先に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい」
と言われたのだそうです。

 私たちの生が、この地上の生だけで終わるものではなく、
私たちを創造された方の前で、
どのように生きたかの清算をする時が来るのだそうですから。

 イエスは、最初の来臨のとき、
柔和な王として、
ろばの子に乗ってエルサレム入場され(ゼカリヤ9:9、マタイ21:1~11)、

 二度目には、
天使の号令と神のラッパの鳴り響く中で、
天の雲に乗って来られ、
ご自分につく者を一瞬にして霊のからだ、復活のからだに替えて、
天に引き上げ、
いつまでもご自分と共にいる、
ご自分のいる所に一緒にいるようにしてくださるのだそうです18」(Ⅰテサロニケ4:13~18)。

 そして、三度目に来られるときには、
「戦車を、軍馬を絶やし、戦いの弓も絶たれ、
諸国の民に平和を告げられ(ゼカリヤ9:10、黙示録20:1~3)、
各自の行いに応じてさばきをなさるのだそうですから(黙示録20:12)。

 その、イエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
受け入れる者の心に、
イエスの「皆に仕える」思いも置いてくださるのだそうですから。
今日も。
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