落合順平 作品集

現代小説の部屋。

からっ風と、繭の郷の子守唄(2)

2013-06-18 10:17:11 | 現代小説
からっ風と、繭の郷の子守唄(2)
「暴れ坂東と、広瀬川の関係は」




 仕事を終えた人々がようやくの家路を急ぐころ、前橋市の中心部にある弁天通り商店街から
路地を入った一角に、ポツリポツリと小さな明かりがともりはじめます。
ここが、40メートル足らずのアーケードの下で、お互いが肩を寄せ合うようにして
長屋風の建物が密集をしている、呑竜(どんりゅう)と呼ばれている呑み屋横丁です。
人々は古くからの慣習のまま、ここを『呑竜マーケット』と呼んでいます。


 入居している全てのスナックや居酒屋などの飲食店が、薄い壁1枚のみで仕切られています。
1店舗あたりの面積は、ほとんどが13~16平方メートル余り(5坪~6坪)という狭さです。
カラオケ目当ての客たちが、今日も狭いカウンターでひたすら肩などを寄せ合い、
一生懸命に、マイクを握って離しません。



 康平の店も、その中に居座っている一軒です。
貞園は台湾から日本に絵画修業でやって来た、少しばかり妖艶な魅力を放つスレンダーな美人です。
貞園が日本に滞在をするようになってから、早くも10年余りが経ちました。
すらりとした容姿にもの言わせて、いつの間にか某大手家電メーカー直属の、
冷暖房設備会社の社長愛人におさまっています。



 「愛人暮らしというのは、思いのほかに窮屈だ。
 それでいて日本では、結構、肩身の狭い想いを強いられる。
 台湾には公娼制度というものが有って、ある意味、セックスに関しては開放的だけど、
 日本社会ときたら、いまだにセックスのことを”秘め事”などと呼ぶし、
 なにやら陰湿なものという見方などが、はびこっている後進国だ。
 女性に関しても、いまだに男尊女卑の思想が横行してる。
 社長ときたら二言目には、女遊びは男の甲斐性だと啖呵を切るし、
 あげくに今頃は、夜来香(いえらいしゃん)のママと、
 2泊3日で温泉旅行で、いちゃついている始末だ。
 まったくもって、日本の文化と、一部の男達には頭にくるわ。
 仕事のできる男たちは、おしなべて色を好むし、女遊びもはなはだ激し過ぎる。
 日本のエコノミックアニマルは、全員が揃いも揃って、まったくもってのドスケベだ。」


 
 カウンターへ肘を置き、頬杖をつきながら貞園が愚痴をこぼし始めています。
カラカラとグラスの氷を指でかきまわしながら、『ふんっ』と、いつものように
小鼻へ皺を寄せておどけてみせます
それはお店の中にお客さんの姿が見えないときに、貞園がいつも見せる、
いつもの決まった、おねだりのサインです。


 「だってさ。康平は催促をしなければ、私の傍に絶対に寄ってこないんだもの。
 何をいまさら警戒をしているのさ。別に取って食べるわけじゃないし。
 寂しい乙女の独り言に、もうすこし真面目に付き合ってくれてもいいじゃないの、あんたは。
 バチなんか、当たらないと思うけど」

 「今夜は一人で飲むにはなにやら、寂しいものがあるってか・・・・
 もう少し待て。仕込みが終わったら、のぞみ通りに愚痴ぐらいは聞いてやるから」


 「少しだけだよ、待つのは。
 それにしてもさ。絵の勉強をするためにはるばると台湾くんだりから、
 日本に来たと言うのに、どこをどう間違えたんだろうかなぁ、
 いつのまにかの愛人暮らしだ。
 あ~あ、私の人生は、こんなはずではなかったのに、なぁ~・・・・」


 と、いつもの口癖を貞園が、また懲りずに口にしています。
社長は営業用の接待も兼ねて仕事仲間や取引先たちと、前橋の繁華街を
夜な夜なに「わたって、すこぶる元気に呑み歩いています。
ひたすら帰りを待つ身の貞園は、ポツポツと愚痴をこぼしながら今夜のように、
康平の店で時間を潰すことがすっかり、最近での定番となっています。



 『呑竜マーケット』は、 北関東3県を結んでいる国道50号線の北にあり、
横丁の東の出口には、市内を南北に貫ぬいて流れる広瀬川の畔があります。
西には関東と新潟を結んでいる大動脈の、国道17号線が走っています。
その国道17号線が、前橋市の住吉町一丁目にさしかかるあたりには、
『糸のまち前橋』を偲ばせる「前橋残影の碑」が、広瀬川に架かる厩橋(うまやばし)ぎわに
ひっそりと建っています。



 この碑は、前橋市の発展の礎となった、生糸の町を象徴して建立をされたものです。
前橋では中世の頃から「赤城の座繰り糸」と呼ばれた座繰製糸が盛んでしたが、
明治維新の以降には広瀬川の豊かな水を利用しての、近代化された器械による製糸と
撚糸がきわめて盛んになり、広瀬川を中心に、おおいなる発展ぶりなどをみせました。
碑には「相葉有流」が詠んだ前橋残影の句として、
「繭ぐるま 曳けばこぼるる 天の川」と刻まれ、座繰りをする女性の姿が描かれ、
脇には白御影石で造られた繭型の湧水が置かれ、その大きな繭からは清らかな水が流れ出て、
それを「市の紋章」を象った丸い台座が、しっかりと受け止めています。



 鉄道が発達をみせる明治期までは、多くの水運を利根川が担いました。
高崎市にほど近い倉賀野や、もう少し下流にある伊勢崎市の境町には、水運のための
大きな河岸が設けられ、幕末から明治にかけては、上州特産の大量の生糸や繭、蚕種などが
開港されたばかりの横浜を目指して送られていました。

 谷川岳を源にして、急峻な山間を一気に下って来た利根川は、
豊富な水量と共に、きわめて勢いのある急な流れをこの前橋市の周辺まで保っていました。
折にふれて反乱を繰り返すことから、『暴れ坂東』として恐れられ、
長年にわたり、治水できわめて苦労させられてきた言う歴史なども持っています。


 市内の北部に取水口を持つ広瀬川は、中世に度々氾濫をした利根川の洪水を
きっかけにし、その復旧と開墾の歴史の末に、ようやく完成をみた水利と交易のための運河です。
『暴れ坂東』の急流域を大きく迂回した広瀬川の流れは、30キロも南に下った
伊勢崎市の下流あたりで、ふたたび利根川との再会を果たします。
豊かな水量と交易の利便性を併せ持ったこの広瀬川の流域は、明治期以降になると、
生糸を生産する一大産地として、とりわけ急激な発展ぶりを遂げました。



 前橋市は、きわめて長い裾野を引く赤城山の南面に、古くからひらけてきた城下町です。
前橋市を起点に、東へ向かう赤城山麓の農村部では昔から、繭から生糸を直接手で紡ぎ出す
「上州座繰り糸」の生産が盛んで、その主な担い手は山麓の17村にまたがった
勢多郡域の、農家の女性たちでした。


 薪で沸かした熱湯の中で繭を茹で、そこから直接糸を引き出します。
手作業によって引き出されたこの独特の風合いと個性を持った糸は、
「赤城の糸」と呼ばれ、長いあいだにわたって絹問屋から珍重をされてきました。
良い生糸はまた、その原点となる優れた蚕の育成を必要として、その主食というべき
良質の桑の木による優秀な桑の葉の生産なども、併せて必要とされてきました。



 「へぇぇ・・・・赤城の座繰り糸か。
 で、さあ。良く聞くけども、その明治と言うのは、いったいいつ頃の時代なの。
 例のほら。坂本竜馬が、新撰組とチャンチャンバラバラを繰り広げたという
 あの、古い時代のことでしょう?」

 「大政奉還が1867年のことだから、いまからざっと一世紀半も昔のことだ」

 「じゃあ、19世紀の中ごろだ。
 私が生まれた台湾でいえば、中国本土の支配を受けていた他に、
 オランダやスペインなどがやってきて、植民地にされていたという時代だわ。
 もともと台湾に居住していた現住民は、10民族あまりで、いずれも少数民族といわれているし
 その後に、主に福建省から移住してくる人たちが増えてきて、
 いまでは、台湾の人口の大半を漢人たちが占めているわ」


 「漢人? 台湾では中国人のことをそんな風に呼んでいるんだ」


 「日本人のことは、和人でしょ。
 日清戦争以降に、50年間も統治をされたことで、
 私のひいおばあちゃんの年代の人は、ほとんど日本語での会話が出来るのよ。
 比較的早く私が日本語を覚えたのも、その血を引いているせいかしら」


 「へぇぇ。貞園はどこで日本語を覚えたの。
 留学の目的は美大で、美術修業のはずだったと思うけど」



 「愛人暮らしの、ベッドの中よ。
 肌を共にすることで、あっというまに異民族の言葉を吸収できるわよ。
 愛も、セックスも、言葉も、どれも直接的に、本能の勢いのままに身につくものよ」


 「・・・・あのなぁ、貞園。
 客が居ない時とはいえ、過激すぎる発言には要注意だ。
 俺だって男だ。挑発をするような言い方には、充分に気をつけろ」



 「あら・・・・この程度で過激になるの?
 そうだわよねぇ。日本ではあれのことを、『秘めごと』と呼ぶくらいだもんね。
 ほらほら、康平。お仕事の手が停まっているわよ。
 早く仕込みを終えないと、まもなくお客さん達が来ちゃうわよ。うふふふ」





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