写真ー筆洞の平壌冷麺専門店前で
7月28日・
李鳳朝先生との再会―大漢門から筆洞麺屋に
今日は李鳳朝先生と、一カ月ぶりにお会いする日だ。約束の場所と時間は、大漢門前で午前10時30分。
数日前に夏風邪をひき咳が止まらない。峠は越したのだが、咳はまだ治まらない。早めに地下鉄に乗りソウルへ。ソウルに近づくにつれ車内が混みだした。気にしていた咳が…、すると車内の2,3か所からせき込む声がした。
大漢門には10時15分前に到着、徳寿宮内で涼みながら待とうと1000ウォンで入場券を買った。宮殿内にはまだ観光客は見えない。日陰を求めて歩き、いつしか説明文を読みながら、順路に従い一通りの見学をした。
途中木陰の向こうにイギリスの国旗を掲げた洋屋が目にとまった。近くにいた宮殿の案内係に声をかけると、この辺りはアメリカ、ロシア、フランスなどの大使館が密集しているところですよ、と答えてくれた。それにしても王朝の宮殿真横に迫っている外国大使館の存在に疑問を感じ質問したところ、凡そ次のような答えが返ってきた。
明星皇后が景福宮内で日本軍の刺客に殺害された後、李氏王朝最後の高宗皇帝は身の危険を感じ諸外国の大使館近くに王宮を移したのだと、外勢に頼らざるを得なかった弱みに付け込まれ、広い王宮の一部の土地をやむなく提供したのだと…。
この話を聞きながら、今年の三千里鉄道結成10周年記念討論会で磯貝さんが、日韓併合100年は雲揚号まで、いや吉田松陰の征韓論まで遡るべきと主張された言葉が思い出された。
このように大韓帝国は1910年のはるか前から、日本だけでなく世界列強の餌食となり国権と民族自尊が蝕まれていたのだ。
高宗も歩んだであろう宮殿内を、俄か憂国の志士になったような気分に浸りながら、約束の時間5分前に出た。
梅雨明けの暑い日差しがアスファルトに降り注いでいた。木陰に入り待つこと15分ほど、スーツ姿にネクタイをきちんと結んだ長身の紳士が汗を拭きふき小走りに近づいてきた。
握手を交わし、近くの喫茶店に入った。
李先生は「ご免、直前まで丁世ヒョン長官らとの会議があって…。元気でしたか?」と、少し落ち着かれたようだ。
ぼくはまず、今回三千里の10周年を共に祝い成功させるために尽力くださった諸先生方への感謝を伝え、10周年の凡その総括の内容を述べた。じーっと聞いていた李先生が、ぼくの話が終わると「国内では三千里鉄道といっても、ほとんど知らない」とぽつんと漏らした。そして記念誌のようなもののハングル版があれば、韓国でも地方で運動している人々に刺激になるのでは…、小さくても普通の人々の夢が大きく社会を変えられるのだという勇気を与えられるのでは…、と独りごとのように語られた。(注―祝辞を寄せてくれた方々と一部知り合いに記念誌とニュースレター16号を、現地から郵送)
12時近くになり喫茶店を出た。徳寿宮の外塀沿いの、街路樹の生い茂った道をしばらく歩いた。由緒ある学校、教会、大使館などが並び、時折立ち止まり李先生の丁寧な説明を聞きながら、大通りに出た。
丁度タクシンが停まり人が降りたので、李先生が手を挙げた。
静かに近づいたタクシーのドアが開き僕らが乗り込むと、すぐに走り出した。
白髪の運転技師はちらっとバックミラーで李先生を確認し、「今日は大変な方に乗っていただいたみたい、 よくお見かけしたのですが…」と話しかけてきた。李先生がどこで見たのと問い返すと、テレビでと答えた。すると、政府で仕事していたので、政府発表などでよく出ました、と丁重に話された。
そんな会話を聞きながらタクシーは、中区筆洞区域に入った。大通りから右折、なだらかな坂になにっている2車線の狭い道路を走り、ゆっくり下り切ったところに人だかりができていた。日本で言う所謂行列のできる店なのだ。
食通の李先生、前回の全州ピビンパのつぎは、ここ筆洞の冷麺専門店を案内してくれた。車中、ここには林東源先生も来られ一度靴をなくされたことがあるとエピソードを紹介、朝鮮戦争当時越南した避難民が先代創業者、この辺りは北に故郷を持つ人が多く、今は娘が二代目経営者になっていると話してくれた。
2階建ての木造モルタルの店内は立錐の余地もないほど。そんなに広くはないがザーと100名を超す客が席を埋めている。冷麺なので食べるスピードも速い。次から次へと群れて入り、群れて出る。客層も10代から80代まで、男性女性、サラリーマン、会社役員など様々だ。
僕らは1階奥部屋の隅の席を占めた。入るとき店員のくれたビニール袋に靴を入れて持って入った。林先生もこんな状況で靴をなくされたのかと合点した。
味は、もう言うまでもない。何より僕にとって30代後半北を訪問、玉流館のお盆に盛られた平壌冷麺を初めて食べた記憶がかすかに蘇った。
その話をすると李先生は、そのころから自分も北関連の動きをチェックしメモしてきたと、統一部関連の業務をすでに30年近くしていることになる、と妙な連帯意識すら感じさせた。
今後の予定は、29日の始発で智里山(李鳳朝先生同行)へ、その後僕一人で光州に足を延ばすつもりだ。namsang
7月28日・
李鳳朝先生との再会―大漢門から筆洞麺屋に
今日は李鳳朝先生と、一カ月ぶりにお会いする日だ。約束の場所と時間は、大漢門前で午前10時30分。
数日前に夏風邪をひき咳が止まらない。峠は越したのだが、咳はまだ治まらない。早めに地下鉄に乗りソウルへ。ソウルに近づくにつれ車内が混みだした。気にしていた咳が…、すると車内の2,3か所からせき込む声がした。
大漢門には10時15分前に到着、徳寿宮内で涼みながら待とうと1000ウォンで入場券を買った。宮殿内にはまだ観光客は見えない。日陰を求めて歩き、いつしか説明文を読みながら、順路に従い一通りの見学をした。
途中木陰の向こうにイギリスの国旗を掲げた洋屋が目にとまった。近くにいた宮殿の案内係に声をかけると、この辺りはアメリカ、ロシア、フランスなどの大使館が密集しているところですよ、と答えてくれた。それにしても王朝の宮殿真横に迫っている外国大使館の存在に疑問を感じ質問したところ、凡そ次のような答えが返ってきた。
明星皇后が景福宮内で日本軍の刺客に殺害された後、李氏王朝最後の高宗皇帝は身の危険を感じ諸外国の大使館近くに王宮を移したのだと、外勢に頼らざるを得なかった弱みに付け込まれ、広い王宮の一部の土地をやむなく提供したのだと…。
この話を聞きながら、今年の三千里鉄道結成10周年記念討論会で磯貝さんが、日韓併合100年は雲揚号まで、いや吉田松陰の征韓論まで遡るべきと主張された言葉が思い出された。
このように大韓帝国は1910年のはるか前から、日本だけでなく世界列強の餌食となり国権と民族自尊が蝕まれていたのだ。
高宗も歩んだであろう宮殿内を、俄か憂国の志士になったような気分に浸りながら、約束の時間5分前に出た。
梅雨明けの暑い日差しがアスファルトに降り注いでいた。木陰に入り待つこと15分ほど、スーツ姿にネクタイをきちんと結んだ長身の紳士が汗を拭きふき小走りに近づいてきた。
握手を交わし、近くの喫茶店に入った。
李先生は「ご免、直前まで丁世ヒョン長官らとの会議があって…。元気でしたか?」と、少し落ち着かれたようだ。
ぼくはまず、今回三千里の10周年を共に祝い成功させるために尽力くださった諸先生方への感謝を伝え、10周年の凡その総括の内容を述べた。じーっと聞いていた李先生が、ぼくの話が終わると「国内では三千里鉄道といっても、ほとんど知らない」とぽつんと漏らした。そして記念誌のようなもののハングル版があれば、韓国でも地方で運動している人々に刺激になるのでは…、小さくても普通の人々の夢が大きく社会を変えられるのだという勇気を与えられるのでは…、と独りごとのように語られた。(注―祝辞を寄せてくれた方々と一部知り合いに記念誌とニュースレター16号を、現地から郵送)
12時近くになり喫茶店を出た。徳寿宮の外塀沿いの、街路樹の生い茂った道をしばらく歩いた。由緒ある学校、教会、大使館などが並び、時折立ち止まり李先生の丁寧な説明を聞きながら、大通りに出た。
丁度タクシンが停まり人が降りたので、李先生が手を挙げた。
静かに近づいたタクシーのドアが開き僕らが乗り込むと、すぐに走り出した。
白髪の運転技師はちらっとバックミラーで李先生を確認し、「今日は大変な方に乗っていただいたみたい、 よくお見かけしたのですが…」と話しかけてきた。李先生がどこで見たのと問い返すと、テレビでと答えた。すると、政府で仕事していたので、政府発表などでよく出ました、と丁重に話された。
そんな会話を聞きながらタクシーは、中区筆洞区域に入った。大通りから右折、なだらかな坂になにっている2車線の狭い道路を走り、ゆっくり下り切ったところに人だかりができていた。日本で言う所謂行列のできる店なのだ。
食通の李先生、前回の全州ピビンパのつぎは、ここ筆洞の冷麺専門店を案内してくれた。車中、ここには林東源先生も来られ一度靴をなくされたことがあるとエピソードを紹介、朝鮮戦争当時越南した避難民が先代創業者、この辺りは北に故郷を持つ人が多く、今は娘が二代目経営者になっていると話してくれた。
2階建ての木造モルタルの店内は立錐の余地もないほど。そんなに広くはないがザーと100名を超す客が席を埋めている。冷麺なので食べるスピードも速い。次から次へと群れて入り、群れて出る。客層も10代から80代まで、男性女性、サラリーマン、会社役員など様々だ。
僕らは1階奥部屋の隅の席を占めた。入るとき店員のくれたビニール袋に靴を入れて持って入った。林先生もこんな状況で靴をなくされたのかと合点した。
味は、もう言うまでもない。何より僕にとって30代後半北を訪問、玉流館のお盆に盛られた平壌冷麺を初めて食べた記憶がかすかに蘇った。
その話をすると李先生は、そのころから自分も北関連の動きをチェックしメモしてきたと、統一部関連の業務をすでに30年近くしていることになる、と妙な連帯意識すら感じさせた。
今後の予定は、29日の始発で智里山(李鳳朝先生同行)へ、その後僕一人で光州に足を延ばすつもりだ。namsang
報道記事などを援用したリアルタイムの現地情勢報告も役に立つけど、せっかくの滞在なので、こういう文章もいいですね。