正岡子規は明治35年(1902)9月19日午前1時頃、母八重の呼びかけに
応えず天国に昇った。隣室にいた高浜虚子も呼びかけたが応えず。 享年34。
墨汁一滴、病床六尺などを少年時代から愛読していた私は、その六尺の病床があ
った六畳間を前に、しばし感慨に耽った。子規庵では室内の写真撮影はご遠慮下さ
い ということでした。
その後、高浜虚子、河東碧梧桐、寒川鼠骨らが庵を守り続け、昭和20年の空襲
で焼失したが、鼠骨らにより焼失前と同じに再建され現在に至っている。
司馬遼太郎氏作 坂の上の雲の記述を借りると、幼馴染の秋山真之が明治30年
アメリカ大使館駐在武官を命じられ、出立の時「君を送りて思うことあり 蚊帳に
泣く」と詠んでいる。真之が訪れた時、何処に座ったかと思いを巡らせた。
秋山真之は後に連合艦隊参謀になるが、同33年帰国して再び根岸の子規庵を訪
れている。
雀より 鶯多き 根岸かな(明治26年の作)写真下は根岸町会の子規会による
俳句の展示。町の各所に張り出してあります。