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善悪の見分け方はいたって単純だ。それが美しいか醜いかのどちらかで決まる。

2015-09-06 | 社会問題
男性社会と現実の間にはある種の敵対関係は必然だが、女性たちが現実の間にある種の支配関係は男性社会には必然だ。

現実を段階的に分類されたもの、確定されたものとして余計なものにしてしまう機能を現代社会は備えている。

当たり前に受け継がれてきた男性社会、結局は男性社会に指示され命令されてきた伝統だが、繰り返しの言い伝えによる信ぴょう性が弱められつつある現代では、偏った社会体制の傲慢な部分が現れ始め、受け継がれる美意識がある程度存続したことによって蓄積された美を前にして、圧倒的な影響を与え始めているのである。

美意識に抵抗したのは常に力関係であって、美意識が再び共存社会の中に見出されるようになるまではこの抵抗は続く。

異質なもの、ばらばらに分類しているもの、背を向き合うもの、なじみのないものを、最後には美的な統一として把握する力、あるいは少なくとも
統一的に把握したものとして提示する美的な力は、どんな対象に向けてその力を行使したとしても、美意識にとっては本質的な力である。

美意識はいったん習慣として定着されると、調和的な一つの全体という空間に与えられ、あらかじめ法則下にある概念と協調して強制された統一を体験する習慣による習得が可能な洞察として基礎付られることで確証されているのが美的感覚である。

見慣れたものであるという先入観を削除する為には、男性社会は確かに一つの方法だが、偏った社会体制には醜さの本質が映し出されている。

第一に男性は男性と共存出来ずに対立し支配するという、男性の競争好きと言う行動心理の基礎を経由して初めて現在社会の前面になる現象である。

このような対立する性質を持つ状況を抜け出せずには、もはや女性たちの考えられる標準を遥かに超え出た現象が現在の支配関係である。

女性達は理論的に専門化された固執したものよりももっとなじみのある表現への親密な情景を表す自然原理にある美意識に、社会学、人類学的な理論自体の構造的な手段を直観化するものとしてあり続ける。

男性たちが誰も気づかない女性たちの潜在能力の展開が阻まれ、たとえ気づかれることがあっても、決まって打ち砕かれて消されたであろうと思われる女性たちの権威が比類のない例と言えるのは、社会の概念が自然の様々な表象に対して得てきた優位性に基づくものではないからだ。

私達の歴史哲学では、差別的な結合や支配的な管理の体系的な構造を担う意味を効率よい内容に満たされていることによって構築されている。

美的で効果的な効率を通じて社会は現象を母性的で美的な現象経験として認めるようにすべきである。つまり、正しさとは男性的な強さと、女性的な美しさであり、その強さと美しさの同居にこそ正しさがある。

女性原理が意識に語りかける場合、それが意味するものとは、女性の存在がまるごといわば純粋な形式に当てはめられる、もっぱらある特定の意味を伝え、それを他の意味と結合して共存を意味する組織なり共存の複合体にまとめ上げられる課題に奉仕することにある。

時代錯誤との境界はどこにあるのかという、理解することが出来るか出来ないかの境界線は、今一度素直に感じれば解るように、強さと美しさとの共存共生ということになる。

共存共生とは果たして男女が理解される為の条件として、あるいはすでに男性社会が女性社会の形態を備えている存在にだけ、つまりもっとも広い意味での人類学的なもの、少なくとも証言として意図され解り合えたものだけにしか理解出来ないものなのかもしれない。

存在する男女関係が用いる美的な創作活動に、美意識の定義が堕ち果てた現代観念では、排除法で力の強い側に軍配が上がるが、本来備わる美意識の目的手段関係を排除するのではなく、理性と感性の融合にある誰もが美しいと感じるもので理屈ではない。

社会が理解する段階において、ますます美的な方向に向かうことが望ましいし、美的センスの向上に用いられるようにもなる。

現在の社会学がどれほど人類に役に立っているのかは計り知れないが、人間社会だけが男性の意志だけで判断されては今までの社会学と人類学は偽物と証明される。

男性たちが創り上げてきたものだけが真理に接近できるという現象と、歴史哲学がはたして本当に真実から創られたものだろうかという疑念を経由して、解釈の違いが一般的な常識として創り上げられる社会現象に美的な聖域への移行を、一足遅れて遣ってくる正しさの意味づけに影響を及ぼすのは必然である。

美的な解釈と対応は実際に触れ合って感じてみて初めて、伝達が意図的に変更されるのが世の常であるから、その美的解釈の対象を一義性に目指すものでは決してなく、むしろ多様性にこそ価値がある。

共有する意図があったという前提が証明されない時でも、情報の伝達や、それどころか啓示にさえ備わっているに違いない神の意志を美的に感じてこれまで生きてきたのが私達である。

美意識が現象化するのは、それぞれの意味を持ち、それを明らかにし、いつまでもその意味を保持できるものだけでもなく、まさにそれが多義的であるゆえにその美的解釈を自らの意味の中に受け入れるものである。

その美的解釈は対象の常に新しい美的解釈によって豊かになることを求める為にも、その対象は新しい世界観を受け入れ、新しい社会現象を引き受け、ことに自らの生存関係の事実に正しい意味を持つことになる。

時を経て、歴史的な地平に立つ者たちにおいて私達の善悪は美的センスの上に築かれてゆく。男女共通の美意識によって、今までには存在しえず手に入れられないものが手に入るようにもなる。

美意識に必要な女性たちの理念は、科学的で客観的で理想的に抵抗する解りにくい現代社会構造に全面的に役立つものなのである。





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