12月20日 木曜日
おはようございます。 酒好きの思想家です。
東洋思想であり東洋文化である東洋宗教は
仏教の真の目的である 「お釈迦様の悟り」 が究極の法典である。
なぜなら、
これを悟ればあなたは今日からブッタ(眼ある者)と成るからだ。
逆に、煩悩を正当化して世俗の無明のままでは、
西暦700年代にイスラム教に占領されても文句は言えない。
安楽とは一切の悪を為さず、善を成し遂げる「七仏通戒偈」である。
では、お釈迦様の悟りとはいったい何ぞや。です。そもそも、
一般の人々が悟れないから 「悟り」 であり、
その心は単純明快、シンプルイズベスト。
お釈迦様が言い遺した名言通り、
この世は 「一切皆苦、諸行無常」 これである。
つまり、お釈迦様が赤子の泣き声で何を悟ったのかというと、
「この世は地獄であり、私たちは地獄に堕ちたのだ。」 ということである。
あなたも私も共に地獄に堕ちているから苦しみから逃れられないのである。
「えっ、信じられない!」 そう。だから悟りだ。
実際、この世が地獄だと悟れば全ての謎が解けてゆくように、
この世のものは不浄だと観察しながら暮らせばマーラが現れてもビクともしない。
宗教界全体に言える 「天命」 それは、
生きることは死に逝くことであるように、
その苦しみを取り除くことが仏教の果報であり因果律であり 「空」 である。
お釈迦様の大いなる死には、
諸々のことがらは全て過ぎ去って行くものだというように、「空」 即ち未来志向だ。
時間は過去から遣って来ない。未来から過去へ過ぎ去って往くものなのである。
「縁起」 も同様、どうやら私たちは
目には見えない何者かによって生かされている 「涅槃寂静」 なのである。
従って、いつまでも怠け者であっては永遠の輪廻を繰り返すばかりで涅槃が判らず、
ゴールを決めなければ 「運命」 が始動しないように、
タクシーに乗って目的地を言わなければ行きたい所へたどり着けない。
また四聖諦に書かれている
この世は苦しみであり、苦しみは煩悩であり、その煩悩を解脱する八正道の実践と六根清浄の解脱だが、
その為の出家と自立、他力本願と自力本願との諸法無我夢中、犀の角の如くただ独り歩めだ。
こうした多くの修行を日本では 「まじめ」 という。
真面目とは、私たちはただトイレ掃除をしているのではない。
トイレを磨くと同時に自らの心を磨いているのである。「まじめ、真面目、まじめ」 という様に。
よく「日本人は無宗教だ!」と言われますが、
真面目な日本人を見かけたら、「あの人は仏教徒だな。」 と思えば間違いない。
重要なことは、日本人は何をしたいのか。もう一度初心に戻って確認する為には、
いつまでも修行僧でシコシコと満足せず、
お釈迦様の悟りを啓いてブッタ(眼を開いた者)と成ることをお勧めしたいと思います。
つづく。
おはようございます。 酒好きの思想家です。
東洋思想であり東洋文化である東洋宗教は
仏教の真の目的である 「お釈迦様の悟り」 が究極の法典である。
なぜなら、
これを悟ればあなたは今日からブッタ(眼ある者)と成るからだ。
逆に、煩悩を正当化して世俗の無明のままでは、
西暦700年代にイスラム教に占領されても文句は言えない。
安楽とは一切の悪を為さず、善を成し遂げる「七仏通戒偈」である。
では、お釈迦様の悟りとはいったい何ぞや。です。そもそも、
一般の人々が悟れないから 「悟り」 であり、
その心は単純明快、シンプルイズベスト。
お釈迦様が言い遺した名言通り、
この世は 「一切皆苦、諸行無常」 これである。
つまり、お釈迦様が赤子の泣き声で何を悟ったのかというと、
「この世は地獄であり、私たちは地獄に堕ちたのだ。」 ということである。
あなたも私も共に地獄に堕ちているから苦しみから逃れられないのである。
「えっ、信じられない!」 そう。だから悟りだ。
実際、この世が地獄だと悟れば全ての謎が解けてゆくように、
この世のものは不浄だと観察しながら暮らせばマーラが現れてもビクともしない。
宗教界全体に言える 「天命」 それは、
生きることは死に逝くことであるように、
その苦しみを取り除くことが仏教の果報であり因果律であり 「空」 である。
お釈迦様の大いなる死には、
諸々のことがらは全て過ぎ去って行くものだというように、「空」 即ち未来志向だ。
時間は過去から遣って来ない。未来から過去へ過ぎ去って往くものなのである。
「縁起」 も同様、どうやら私たちは
目には見えない何者かによって生かされている 「涅槃寂静」 なのである。
従って、いつまでも怠け者であっては永遠の輪廻を繰り返すばかりで涅槃が判らず、
ゴールを決めなければ 「運命」 が始動しないように、
タクシーに乗って目的地を言わなければ行きたい所へたどり着けない。
また四聖諦に書かれている
この世は苦しみであり、苦しみは煩悩であり、その煩悩を解脱する八正道の実践と六根清浄の解脱だが、
その為の出家と自立、他力本願と自力本願との諸法無我夢中、犀の角の如くただ独り歩めだ。
こうした多くの修行を日本では 「まじめ」 という。
真面目とは、私たちはただトイレ掃除をしているのではない。
トイレを磨くと同時に自らの心を磨いているのである。「まじめ、真面目、まじめ」 という様に。
よく「日本人は無宗教だ!」と言われますが、
真面目な日本人を見かけたら、「あの人は仏教徒だな。」 と思えば間違いない。
重要なことは、日本人は何をしたいのか。もう一度初心に戻って確認する為には、
いつまでも修行僧でシコシコと満足せず、
お釈迦様の悟りを啓いてブッタ(眼を開いた者)と成ることをお勧めしたいと思います。
つづく。