五木寛之さんの「人間の覚悟」も8割がた読めたであろうか。
私はその中の「他力」という考え方を紹介したい。
と言っても、私なりの解釈ではあるのだが。
「他力」とは自分で何の努力もせずに怠けている、ということではない。
それでは何か?と言うのに、逆に「自力」というものを考えてみる。
「自力」とは分かりやすく書くと、人一倍頑張って人より抜きんでて勝ちに出て掴みとる、という考え方である。そこに何が問題があるかと言うと、「頑張らなければ認めない」というものがある。努力をするものだけが素晴らしいという考え方である。
それは、報酬が得られたのは頑張ったから→自分は頑張ったから報酬を得られて当然、というスタンスになる。この価値観を続けている限り、常に自分は頑張り続けねばならず、また頑張らない相手は許せなくなる。そして頑張った自分はこうなって当然、という驕りが出てくるのである。
分かりやすく「頑張る」ということで例えてみたが、「正義・悪」、「良い・悪い」、「上か下か」、そういうものの見方、とかく白か黒かで決着をつけようという考え方である。
果たして世の中に起こる全てのことがそのような捉え方で良いのだろうか?という一つの問い掛けである。「悪い」ものにもいろんな側面があり、「悪い」だけが全てではない。
それは「頑張ること」「正しいこと」を放棄するのとは意味合いが違う。
そこだけに全ての価値観(ジャッヂ)をつけることに、傲慢さ・横暴さ、そこに暴力的なものを感じてしまうのである。
そして最近、そういう風潮がとても強くなった気がする。時にそうジャッヂをつけることで快感にさえつながるような力を感じる。
そんな風に感じたその自分の感覚を信じて、ふと周りを見渡すと、(明確には分けられない分けることはできないだろうけれど)「自力」っぽい人と、「他力」っぽい人とがいるように思う。
本来、頑張っているのだから「自力」の方が良くなるはずなのに、一緒にいて心が落ち着くのは「他力」のタイプの人の方が多いように思う。
もっと突っ込んで書いてしまうと、自分が頑張ったから・自分がしてあげたから、という考え方は、何かしてもらえなければありがたみを感じない、と言う考え方にもつながる気がする。もっとこの世界は誰もが平等に、存在しているもの全てが(動物も虫も草花もお天気も)ありがたい、温かいものなのではないのだろうか。
世間に存在する「価値観」はその中の限られた一面にすぎない。
人間は生まれた時から死のキャリアを積んでいる、と五木さんはいう。
出会った時からもう別れは始まっていると言う。
何をしたからこうなった、何をされたからこうなった、みたいな狭い次元の話ではなく、何をしたってどうあがいても、人は1人で死んでいく中で、世間の評価より、その瞬間その瞬間を自分なりにめいっぱい咲き、生きていくことが大切なのではなかろうか。(と、私は解釈している。)
生きていく上で、喜びと悲しみは必ずついてくる。
悲しみや苦しみだけを忌み嫌う、悪いものだと遠ざけるのは間違っている。
その両方があって今の私なのだから、それを思いっきりかみしめて生きていきたい。
※書いている間に先ほど最後まで読み終えた。アマゾンで多くの方が最終章が圧巻と書かれていたが、その通りだと思う。今度古本屋で探して、しばらく自分のバイブルにしたい。
私はその中の「他力」という考え方を紹介したい。
と言っても、私なりの解釈ではあるのだが。
「他力」とは自分で何の努力もせずに怠けている、ということではない。
それでは何か?と言うのに、逆に「自力」というものを考えてみる。
「自力」とは分かりやすく書くと、人一倍頑張って人より抜きんでて勝ちに出て掴みとる、という考え方である。そこに何が問題があるかと言うと、「頑張らなければ認めない」というものがある。努力をするものだけが素晴らしいという考え方である。
それは、報酬が得られたのは頑張ったから→自分は頑張ったから報酬を得られて当然、というスタンスになる。この価値観を続けている限り、常に自分は頑張り続けねばならず、また頑張らない相手は許せなくなる。そして頑張った自分はこうなって当然、という驕りが出てくるのである。
分かりやすく「頑張る」ということで例えてみたが、「正義・悪」、「良い・悪い」、「上か下か」、そういうものの見方、とかく白か黒かで決着をつけようという考え方である。
果たして世の中に起こる全てのことがそのような捉え方で良いのだろうか?という一つの問い掛けである。「悪い」ものにもいろんな側面があり、「悪い」だけが全てではない。
それは「頑張ること」「正しいこと」を放棄するのとは意味合いが違う。
そこだけに全ての価値観(ジャッヂ)をつけることに、傲慢さ・横暴さ、そこに暴力的なものを感じてしまうのである。
そして最近、そういう風潮がとても強くなった気がする。時にそうジャッヂをつけることで快感にさえつながるような力を感じる。
そんな風に感じたその自分の感覚を信じて、ふと周りを見渡すと、(明確には分けられない分けることはできないだろうけれど)「自力」っぽい人と、「他力」っぽい人とがいるように思う。
本来、頑張っているのだから「自力」の方が良くなるはずなのに、一緒にいて心が落ち着くのは「他力」のタイプの人の方が多いように思う。
もっと突っ込んで書いてしまうと、自分が頑張ったから・自分がしてあげたから、という考え方は、何かしてもらえなければありがたみを感じない、と言う考え方にもつながる気がする。もっとこの世界は誰もが平等に、存在しているもの全てが(動物も虫も草花もお天気も)ありがたい、温かいものなのではないのだろうか。
世間に存在する「価値観」はその中の限られた一面にすぎない。
人間は生まれた時から死のキャリアを積んでいる、と五木さんはいう。
出会った時からもう別れは始まっていると言う。
何をしたからこうなった、何をされたからこうなった、みたいな狭い次元の話ではなく、何をしたってどうあがいても、人は1人で死んでいく中で、世間の評価より、その瞬間その瞬間を自分なりにめいっぱい咲き、生きていくことが大切なのではなかろうか。(と、私は解釈している。)
生きていく上で、喜びと悲しみは必ずついてくる。
悲しみや苦しみだけを忌み嫌う、悪いものだと遠ざけるのは間違っている。
その両方があって今の私なのだから、それを思いっきりかみしめて生きていきたい。
※書いている間に先ほど最後まで読み終えた。アマゾンで多くの方が最終章が圧巻と書かれていたが、その通りだと思う。今度古本屋で探して、しばらく自分のバイブルにしたい。